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コロンビア歴史物語 第2話

スペインによる支配は300年近くも続いたが、18世紀も後半になると、アメリカ独立やフランス革命の影響もあり、次第に本国スペインからの独立を求める機運が盛り上がっていく。

その最初の動きが1781年に起きた「コムネーロスの乱」である。

ソコロ地方(現在のサンタンデール県)でタバコ税などの増税と物価高騰に苦しむクリオーリョ(現地生まれの白人)たちを中心とした増税反対一揆は、革命委員会(コムン)が結成され、一時は独立的動きを見せたが、スペイン本国政府が増税を撤回したため終息した。

やがて19世紀を迎え、ナポレオン戦争で宗主国スペインがナポレオン・ボナパルトの率いるフランスに侵略されると、スペイン支配下の南米植民地ではフランス傀儡の本国政府への忠誠を拒否し、コロンビアでも独立運動が活発化していく。


コロンビアの歴史を語る際に切っても切れないのが独立運動の指導者シモン・ボリーバル(1783~1830)である。

ボリーバルはベネズエラ生まれのクリオーリョで、南米有数の資産家だった。しかし当時としては珍しく自由主義者であり平等主義者であった。ボリーバルは自らの財産をなげうって南米解放という偉業を成し遂げることになる。

1810年7月20日、ヌエバ・グラナダの独立活動家アントニオ・ナリーニョ(1765~1823)はボゴタ副王を追放し、スペインからの独立を宣言した。

しかし本国スペインで1813年にフェルナンド7世が復位し、反動的な政策に出たため、コロンビアの独立運動は困難に直面し、独立派内部でも連邦派(カルタヘナ派)と中央集権派(ボゴタ派)の対立が表面化するなど足並みはそろわず、スペイン軍の前に苦戦を強いられる。

1814年2月、ボゴタがスペイン軍の手に落ち、ボリーバルはカリブ海沿岸の都市カルタヘナに逃れ、ここを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したが、翌年6月にはカルタヘナで王党派の反乱が起こり、ボリーバルは敗れて命からがらイギリス領ジャマイカに逃亡した。

1816年5月、ボゴタがスペイン軍により再び占領されると、ボリーバルは当時唯一の黒人独立国家だったハイチのペティオン大統領の力を借り、隣のベネズエラから反撃を開始する。

ペティオン大統領はボリーバルに南米を解放したあかつきには、黒人奴隷をすべて解放し自由の身にすることを条件に援助を受け入れた。

1819年にベネズエラの完全独立に成功したボリーバルは、ベネズエラを拠点にコロンビア解放戦争を推し進め、同年8月7日、ボゴタ郊外のボヤカ高原でスペイン軍を撃破し、最終的にコロンビアの独立は成功した。


その後、ボリーバルはスペインの残存勢力を駆逐しながら南下し、エクアドル、ぺルー、ボリビア方面の解放に成功する。1825年に独立したボリビアは、ボリーバルの偉業をたたえ、その国名を「ボリビア」と命名した。

こうして南米諸国の独立に大きく貢献したボリーバルだが、独立後のこれらの国々はまだまだ未熟で、問題が山積みになっていた。

ボリーバルはこれらの国々が再びスペインに侵略されないよう、ひとつの大きな国にまとめて一致団結し列強に対抗していく必要性があると考えていた。

ボリーバルはベネズエラ、コロンビア、エクアドルを含む広い地域をまとめて「大コロンビア」というひとつの巨大な国家を建設した。

ボリーバルは大コロンビアの初代大統領に就任した。副大統領は独立戦争に参加したヌエバ・グラナダ出身の軍人で法律家のフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール(1792~1840)である。

ボリーバルは国力を強化するために中央集権的な政治を目指した。しかし、副大統領のサンタンデールは中央集権に反対し、あくまでも連邦制国家を目指すべきだと主張した。


この中央集権派と連邦派の対立が後々まで尾を引くことになる。コロンビアは広大な国土に多様な環境を持つ国だ。ゆえに昔からそれぞれの地域ごとの独自性が強く、南米で最も地域主義の強い国である。

たとえば、コロンビア中部のアンティオキア地方の人間は、自分たちがコロンビア人である以前にアンティオケーノ(アンティオキア人)であるという自負が強い。

後にコロンビアはイギリス、そしてアメリカに経済的に従属し、経済の実権はほとんど外資に握られてしまうことになるのだが、アンティオキア地方だけはアンティオケーノのみによって運営されていくことになる。


この対立の背景には、地域主義の他にもいろいろな問題が複雑に絡み合っていた。

コロンビアを含めた中南米諸国は、宗主国スペインの需要と供給に合わせて作られた国である。そのため独立後も植民地としての生産拠点という経済構造がそのまま残され、自立していくだけの経済的基盤が何もなかった。

ほとんどの土地が大地主や富裕層といったほんの一握りの特権階級が独占し、大多数の国民は独立前と同じ奴隷の状態に置かれたままだった。

平等主義者であり、ハイチのペティオン大統領とも約束したボリーバルは、独立後ただちに奴隷制を廃止し農地を解放しようとしたが、それまで国の富と権力を牛耳ってきた特権階級がそれを支持するわけがなかった。


大地主たちはボリーバルの中央集権的な改革に反発し、連邦主義を唱え、サンタンデールを担いで激しく対立するようになる。

1828年9月25日にはボゴタ中心部でボリーバル暗殺未遂事件が発生。事件への関与が疑われたサンタンデールは死刑を宣告されるが、彼が暗殺計画に参加した証拠はなく、ボリーバルの暗殺に反対したことが判明したため、ボリーバルは罪一等を減じ、国外追放処分とした。

さらにエクアドルのキト地方を巡ってのコロンビアとペルーの対立も激化し、ベネズエラが大コロンビアからの独立を要求するなど、もはやボリーバルのカリスマ性と独裁をもってしても混乱の収拾は不可能となった。

すべての努力が水泡に帰したことを悟ったボリーバルは大統領を辞任し、失意のうちにヨーロッパへ向けて旅立とうとする。が、その矢先に立ち寄ったコロンビアのサンタマルタで黄熱病にかかり、淋しくこの世を去っていった。

南米解放に生涯を捧げた男のあまりにも寂しい最期であった。大富豪だったボリーバルも、独立運動のために全財産を使い果たし、すでに無一文になっていた。

死の間際、ボリーバルはこう言い残したという。

「この世には偉大な3人の馬鹿がいる。イエス・キリストとドン・キホーテとこの私だ」

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土屋正裕

Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。

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