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コロンビア歴史物語 第3話

ボリーバルの死後、大コロンビアは求心力を失い、1830年にはベネズエラとエクアドルが離脱し、大コロンビアというひとつの国家は消滅した。

1832年には国外追放中のサンタンデールが亡命先から帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国大統領に就任。サンタンデールは保護貿易により経済を発展させ、奴隷貿易を廃止し、教育制度を改革するなど自由主義的な政策を行なった。

1835年にはコーヒー豆の輸出も始まり、コーヒー栽培がコロンビア経済を支える重要な産業となっていった。

コロンビアでコーヒー豆の栽培が始まったのは1732年。隣国のベネズエラから持ち込まれた苗木がオリノコ川流域に広まり、やがてコロンビア全土に広まっていった。

当初はコーヒー農家が各自勝手に作っていたのだが、品質を統一するため、1927年に国立コーヒー生産者連合(FNC)が設立され、現在ではコロンビアのコーヒー生産及び輸出はすべてFNCを通して行なわれることになっている。


1849年、コーヒー農家や小規模事業主、新興財閥を中心に自由党が結成されると、これに対抗する形で大地主やカトリック教会といった支配層を中心に保守党が結成された。

ここからコロンビアは自由・保守両党の二大政党制が続いていくことになる。

コロンビアは中南米では珍しく革命やクーデター、独裁政権といったものをほとんど経験していない国である。

独立後は基本的に選挙による平和的な政権交替と民主主義統治が続いてきた。そのため「西半球で最も古い民主主義国家」と評されることもある。

だが、独立後は内戦が絶えず、政情は不安定である。後には反政府ゲリラが生まれ、今日まで泥沼の内戦が続くことになる。


やっとのことでスペインの植民地支配から独立を果たしたコロンビアだったが、多くの独立国家同様、その前途は多難だった。

コロンビアの新生国家としての苦悩ぶりはその国名の変遷ぶりを見ても分かる。「大コロンビア」として出発した後、1831年には植民地時代の名前に戻し「ヌエバ・グラナダ共和国」となる。1858年には「グラナダ連合」となり、63年には「コロンビア合衆国」と改名。1886年にようやく今の「コロンビア共和国」となった。


独立後は自由党と保守党の二大政党制による民主主義統治の原則は一貫して維持されたものの、自由・保守両党は特権階級による寡頭支配体制を維持するという点では共通していた。

1849年から53年まで自由党のホセ・イラリオ・ロペス大統領が政権を握った。ロペス政権はイエズス会を追放し、教会の財産を没収して政教分離を図り、自由主義的な政策を採った。

1854年に大統領に就任したホセ・マリア・メロ将軍は、保護貿易を求める国内の手工業者を支持基盤としていたが、57年に保守党のマリアノ・オスピナ・ロドリゲスが大統領に就任すると、ロドリゲスは保護貿易を廃止し、自由貿易を導入した。

これによって外国資本が流れ込み、せっかく成長過程にあったコロンビアの工業基盤は壊滅してしまった。

ロドリゲスは教会の特権を復活させ、中央集権化を図り、自由主義者と対立したため、1861年にはカウカ県の自由主義者トマス・シプリアーノ・デ・モスケーラが反乱を起こし、同年7月、ボゴタを制圧してロドリゲスを追放した。

モスケーラは大統領に就任し、1863年には自由主義的な憲法「リオ・ネグロ憲法」を制定した。

モスケーラは教会の財産を没収し、商人や大地主に売却して国家財政の建て直しを図ったが、これにより大土地所有制が一気に進行し、教会の管理下にあった多くのインディオが小作人となるか、都市に出て労働者となるかを迫られた。

この間も自由党と保守党の小競り合いはやまず、コロンビアは内戦状態が続いた。

1867年には自由党がクーデターでモスケーラを追放したが、その後も政争は続き、20年間に50回以上も反乱が発生するなど政情は不安定なままだった。

1879年に自由党のラファエル・ヌニェスが大統領に就任し、行き過ぎた自由主義を改め、中央集権化を図るが、保守党支持者による反乱が起こり、80年まで続いた内戦で8万人が犠牲となった。

ヌニェス政権は反乱を鎮圧し、コーヒー輸出で外貨を稼ぎ、全土に鉄道網を敷設するなど民生にも力を入れた。しかし政情は安定せず、85年にはヌニェスが憲法を破棄し、自ら独裁者になってしまう。

86年には保守的な憲法が制定され、この憲法はその後100年以上も続いた。ヌニェス政権は保守化と独裁化を強め、1890年代に入ると自由主義者による反乱が相次いだ。

1898年にはマニュエル・アントニオ・サンクレメンテが大統領に就任したが、病弱のため実際の執務は出来ず、副大統領のホセ・マヌエル・マロキンに任せっきりだった。


1899年、コーヒー豆の国際相場が暴落。コロンビア経済は一気に奈落の底に突き落とされる。

この経済危機に対し、当時の保守党政権は何ら有効な対策を打てず、関税収益の不足分を補うため不換紙幣を乱発した。

金本位制を採る当時の世界経済で、不換紙幣を増刷するというのは自殺行為以外の何物でもなく、コロンビア経済はたちまち猛烈なインフレーションの進行で壊滅してしまった。

同年10月、自由党急進派のラファエル・ウリベ・ウリベ将軍、ベンハミン・エレーラ将軍、フスト・ドゥラン将軍が蜂起し、コロンビアは3年間にわたる内戦に突入した。

この内戦は「千日戦争」と呼ばれた。自由党はゲリラ戦で抵抗し、3年に及んだ戦闘による死者は民間人も含めて7万5千人から15万人にも達したという。

同じ頃、アメリカ政府はパナマ地峡に運河を作り、その権益を独占したいと考えていた。パナマは今でこそ独立国家だが、当時はコロンビアの一部に過ぎなかった。

アメリカはパナマを欲しがっていたが、コロンビアが内戦状態ではどうしようもない。そこでコロンビア政府に働きかけて早く内戦を終わらせるため、自国民を保護するという口実でコロンビアに軍艦を送り海兵隊を上陸させたりして圧力を掛けた。


1902年に内戦は終結した。和平協定の調印はアメリカの軍艦の中で行なわれた。翌年には、コロンビア政府はアメリカ政府との間で「ヘイ・エラン条約」を結ばされる。これはパナマ運河の権利をアメリカがコロンビアから買い取るという条約である。

3年に及ぶ内戦でコロンビアはズタボロになっていた。その混乱に乗じる形でアメリカはパナマに出兵し、パナマ地方の反乱を支援して、1903年にはパナマを独立させてしまった。


1904年に大統領に就任した保守党のラファエル・レイエスは、国内経済を建て直すため、再び保護貿易政策を採り、国内開発に力を注いだ。

その後、アメリカとのギクシャクした関係はしばらく続いたものの、1914年にはアメリカのウィルソン大統領がコロンビア政府に「遺憾の意」を表明することで仲直りし、コロンビアもようやくパナマの独立を承認した。

アメリカとの関係修復後、コロンビアにはアメリカから多額の資金が流れ込み、経済成長が続いた。こうして「アメと鞭」で他国を支配してしまうのがアメリカの常套手段だ。


しかし、外資導入で潤ったのは一部の金持ちだけだった。多くのコロンビア人は独立前と何ら変わらない貧困の中に置き去りにされていたのである。経済成長とともに、その恩恵を受けられない貧困層の不満も高まっていった。

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プロフィール

土屋正裕

Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。

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