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コロンビア歴史物語 第4話

1928年12月、北部のシエナガにある米国ユナイテッド・フルーツ社のバナナ農園で労働者が大規模なストライキを行なった。これはコロンビア史上最大の規模に発展し、労働者らは待遇改善を要求して町の広場を占拠した。

このストを自由党左派と社会党、共産党も支援したことに恐れをなした保守党政権は、軍による武力弾圧を決定。シエナガの広場に集まったデモ隊に一斉射撃を浴びせた。

死者数は60人から3000人とも言われているが、詳細は不明である。この時、政府の対応を国会で厳しく糾弾した人物がいる。弁護士出身のホルヘ・エリエセル・ガイタン(1903~1948)である。

自由党議員のガイタンはカリスマ的政治家だった。彼はほとんど飲まず食べず寝ずに仕事に没頭し、よりよい生活を求めるコロンビア国民のために全身全霊闘った。彼の演説はイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニをモデルにしたと言われる。


スト弾圧で評価を下げた保守党は1930年の選挙で大敗し、エンリケ・オラヤ・エレーラの自由党政権が誕生した。

オラヤ・エレーラ政権は労働者保護政策を採り、一定の改革には成功した。1932年にはアマゾン地方のレティシアの領有を巡る隣国ペルーとの戦争に勝ち、パナマ問題以来の外交的雪辱を晴らすことにも成功した。

その後、自由党政権は1946年まで16年間続くことになる。自由党政権下で土地改革も行なわれた。この間、ガイタンは短い間だったがボゴタ市長に就任し、いくつかの功績を残した。それでも寡頭体制はビクともしなかった。


46年の選挙では自由党の分裂に乗じて保守党が政権を奪回し、マリアノ・オスピナ・ペレスの保守党政権が16年ぶりに復活した。この時、ガイタンは36万票を獲得し第3位につけている。

これを機に保守党を支持する大地主たちは自由党時代に失った土地を取り戻そうと暴力的手段に訴える。

コントラチェスマ(窮民制圧隊)という私兵集団を結成し、自由党員に対するテロを繰り広げた。これに対抗して自由党員も武装自衛隊を結成。コロンビアは内戦状態に移行していく。

ガイタンは保守党政権による暴力にあくまでも平和的手段で戦おうとした。ガイタンは自由党員によるデモを行ない、保守党の暴力に抗議した。

ガイタンは演説で、

「我々は政治的要求を掲げているのではなく、ただ自由と平和を求めているだけなのだ」

と語った。


1948年4月9日、ガイタンはボゴタ中心部の路上を歩いていた。エル・ティエンポ新聞社で行なわれる予定だったキューバの学生たちとの対談に出席するためである。この学生の顔触れには、後のキューバ革命の指導者フィデル・カストロ・ルスの姿も含まれていた。

ちょうど同じ頃、ボゴタでは米州機構(OAS)の総会が行なわれていた。総会では共産主義の侵略に対抗するため、中南米のいかなる国に対する攻撃もアメリカに対する攻撃とみなし、共同で反撃するという「ボゴタ憲章」が採択された。

午後1時5分ごろ、ガイタンはヒメネス・デ・ケサーダ通りと7番通りの交差点で突然、1人の男に拳銃で4発撃たれた。

ガイタンはただちに病院に運ばれ手当てを受けたが、そのまま意識が回復することなく息を引き取った。

犯人はフアン・ロア・シエラという青年だった。激怒した民衆は彼を捕らえるとリンチにかけ、その場で殴り殺し、さらに死体を引きずり回した。

興奮の極みに達した群衆は口々に、

「革命だ!革命が始まった!」

と叫びながら、警察署を襲い武器を略奪し、カーサ・デ・ナリーニョ(大統領官邸)を目指した。

銃撃戦が始まった。町のあちこちから煙が上がり、銃声が空にこだました。暴動は市民革命の様相を呈した。暴徒の群れにはカストロの姿も含まれていた。

ガイタン暗殺の報は瞬く間に全土に広がり、暴動は各地に飛び火した。

市民軍はボゴタ市外に掛かる橋を切り落とし、軍隊の侵入を阻止した。戦闘は夜に入っても続き、カストロは市民兵とともにボゴタ市内のモンセラーテ山中で夜を明かした。


このガイタン暗殺とボゴタの暴動をきっかけにコロンビアは現在まで続く暗黒の時代に突入するのである。以後の10年間は「ラ・ビオレンシア(暴力)」の時代と呼ばれる。

ボゴタで開催中のOAS総会は中止となった。出席者のマーシャル米国務長官は、

「暴動は共産主義者の仕業だ」

と決め付けた。

オスピナ政権は「武器を引き渡した者は罪を問わない」と約束したが、地方から軍が到着するのを待ち、徹底的な弾圧に乗り出す。

カストロは仲間のほとんどを殺され、命からがら飛行機に忍び込んでボゴタからの脱出に成功した。後に彼は祖国キューバで革命を起こすことになるが、それは10年後の話である。

ガイタンがなぜ暗殺されたのか、暗殺を命じたのは誰なのか、今も謎に包まれている。次の選挙で当選確実と言われたガイタンが殺されたことで、コロンビアはあまりにも大きな代償を支払うことになる。


オスピナは閣内から自由党員を締め出し、保守党超強硬派のローレアノ・ゴメスが実権を握る。50年に大統領に就任したゴメスは超反動的な政策を採り、2年間で5万人の自由党員を処刑し、多くの自由党員が合法闘争を放棄してゲリラ戦に入った。コロンビアは19世紀以来の血で血を洗う内戦に突入する。

これを「ローレアノ戦争(第一次ビオレンシア)」という。

また、この不安定な時期にも関わらず、コロンビアは朝鮮戦争に陸軍の1個大隊を派遣した。これに反対したコロンビア共産党書記長マヌエル・マルランダは警察に逮捕され、警察署で拷問の末に虐殺された。

マルランダの部下だった共産党活動家ペドロ・アントニオ・マリンは、彼の遺志を継いでゲリラ闘争に入った。マリンは自らを「マルランダ」と名乗り、後に誘拐と麻薬取引で悪名高い左翼ゲリラ組織コロンビア革命軍(FARC)を創設することになるのである。

自由党の反乱は次第に自由党系農民の大土地所有制反対闘争に変質していった。52年、ゴメスは恒久的な独裁体制の確立を目指し、スペインのフランコ体制をモデルにしたファシズム憲法を制定した。言論の自由はなくなり、新聞は検閲され、反体制派は容赦なく投獄された。

ゴメスはチュラビスタと呼ばれる保守系農民を使って自由党系農民を根絶やしにしようとした。地方では虐殺が行なわれ、自由党ゲリラの抵抗もまた激しさを増していった。

やがてゴメスの独裁が保守党内部や特権階級にも受け入れがたいものになっていくと、保守党穏健派と自由党は水面下でゴメス政権打倒のため軍部に介入を要請した。

これに応じて朝鮮戦争の英雄である陸軍のグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が軍事クーデターを起こす。1953年6月14日のことである。


無血クーデターでゴメスは解任され国外追放となった。ロハス将軍は軍事政権を樹立し、内戦に参加する自由党員に恩赦を与えた。これに応じて自由党員の多くが投降し、いったん内戦は終息に向かった。

コロンビアで軍事政権が誕生したのは、この時を含めてわずか3回だけである。他の中南米諸国では当たり前に繰り返されたクーデターや独裁も、ここコロンビアではほとんど起こらないのだ。そういうものを嫌う国民性なのだろうか。

だが、その割には政情は安定せず、内戦が後を絶たない。とても矛盾している。理解に苦しむ。


ロハスは「社会復帰救済局」を設置し、娘のマリア・エウヘニア・ロハス・デ・モレノ・ディアスを局長に就任させ、土地改革を行なおうとした。一方で、大地主の要請に応じて、農民に占拠された土地を取り戻すため、地方に軍を派遣した。

ロハスはアルゼンチンのペロン大統領を真似て、自らの支持基盤を自由・保守という伝統的な二大政党ではなく民衆に置こうと考え、ポプリスモ(大衆迎合政策)を採った。しかしこの政策は民衆の支持を得るより早く支配層の造反を招くことになる。

1955年6月、ロハスはゴメス政権のためにテロを行なっていた者たちに恩赦を与えた。「ゴメシスタ」と呼ばれたテロリストたちは釈放されるやただちに罪のない農民たちを虐殺し始めた。

こういう曖昧な態度がロハスの首を絞めた。ゴメシスタの蛮行に対して自由党系農民たちは再び武装し、ロハスも武装農民の弾圧に乗り出す。こうして「ビジャリカ戦争(第二次ビオレンシア)」と呼ばれる内戦が再燃する。

ロハス政権は労働者保護政策を採り、労働者保護法を制定するなど多少いいこともしたのだが、こうした民衆寄りの政策は支配層の反発を招き、孤立したロハスは独裁傾向を強めていった。

1956年2月5日、ボゴタでロハス独裁に抗議のデモを行なっていた市民・学生が警官隊と衝突し、多数のデモ参加者が虐殺されるという「牛の首輪虐殺事件」が起こった。

ロハスは憲法を改正して長期独裁を図ったが、その頃、スペインに亡命中の保守党ゴメス前大統領と自由党は「国民戦線協定」という密約を取り交わす。その内容は自由党と保守党が合意して内戦を終わらせ、以後は自由・保守両党から4年ごとに交代で大統領を選出し、国会の議席も両党で仲良く半分ずつ分担するというものである。


1957年になるとロハスは反対派を徹底的に弾圧し始め、国民戦線の密談に参加したとして保守党党首ギジェルモ・レオン・バレンシアを逮捕した。これは学生や労働者の反感を招き、それまでロハスを支えていた民衆も「反ロハス」に回ってしまう。

これを好機と見た自由・保守両党は大規模なゼネストを組織し、抗議デモを行なった。教会や軍部もロハス不支持に回り、支持母体である軍部からも見放されたロハスは57年5月10日、大統領を辞任しスペインに亡命した。

結局、ロハスの独裁も4年足らずで終わった。

57年11月、自由・保守両党は国民戦線協定に合意し、10年に及んだラ・ビオレンシアの時代に終止符を打った。この10年間の犠牲者は10万人とも20万人とも言われる。


しかし、その後もコロンビアに平和は訪れなかった。自由党を支持して戦っていた農民たちは、約束した土地も得られず、ただ政争の道具に利用されてあっさりと切り捨てられたのである。

寡頭体制はビクともせず、二大政党による政権交替が続いていくだけ。結局、いたずらに血を流しただけで、革命も何も起こらなかった。残されたものはおびただしい死と破壊だけだったのである。

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土屋正裕

Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。

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