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コロンビア歴史物語 第5話

10年に及んだラ・ビオレンシアの終結後もコロンビアに平和が訪れることはなかった。

1958年5月、国民戦線協定に基づく選挙の結果、自由党のアルベルト・ジェラス・カマルゴが大統領に選出された。

しかし国民戦線に反対する自由党左派や共産党は武装闘争を継続し、恩赦にも関わらず武装解除を拒否した自由党系農民たちは山間部に「自治共和国」を形成して中央政府に対抗した。

1959年1月、キューバでカストロの率いる革命が成功すると、共産党の指導の下、農民たちはゲリラ闘争を始める。

同年9月、アメリカのアイゼンハワー大統領はコロンビアに特別調査団を派遣し、コロンビアの共産化を阻止すべく内政干渉を強めていく。

ジェラス政権は1961年、「進歩のための同盟」を発効し、10年間に200億ドルを投じて国民所得を2.5%引き上げ、生活水準を上昇させて貧困を減らす、という計画を実行に移した。

ここで農地改革も行なわれたが、地主のサボタージュによりほとんど実効を上げることはなく、有名無実化した。

またアメリカに追随する形で社会主義国となったキューバと断交するなど、親米反共路線を強め、米国の援助で国内の共産主義勢力を徹底的に弾圧した。

一方で共産ゲリラは着実に勢力を伸ばし、コロンビア中部のビオタ、スマパスなどの高原に「解放区」を作り、キューバ型の革命を目指した。


1962年2月、アメリカ陸軍のウイリアム・ヤーバラ将軍がコロンビアを訪れ、コロンビア国軍のアルベルト・ルイス将軍とともに「共産主義に対抗するための戦略」として「ラザロ計画」を策定した。

この計画は、共産ゲリラの脅威に対抗するため、市民を訓練して民兵を組織し、ゲリラと戦わせるというもので、1968年に当時のバレンシア大統領によって合法化された。

アメリカの援助で近代化されたコロンビア政府軍は、共産ゲリラの解放区を攻撃し、次々に陥落させていった。農民たちは土地を追われ、さらに奥地の人の住んでいない地域に逃れた。

政府軍は無差別爆撃と農民虐殺を繰り返しながらゲリラを追い詰めた。住む所を失った農民たちは南部のメタ、カケタ州のジャングルに逃げ込み、そこを開拓して「独立共和国」を作った。

しかしそれらの土地も政府軍に奪われ、農民たちが切り開いた土地は大地主の手に渡った。


1964年5月27日、政府軍の弾圧に追われた農民たちは、もはや残された手段は政府に対し全面戦争を仕掛けるしかないと判断。ここに40年以上に及ぶ内戦を戦うことになる反政府勢力「コロンビア革命軍(FARC)」が結成されたのである。

筆者(土屋)は共産主義者ではないし、テロには反対の立場だが、コロンビアの歴史を見ていくと反政府ゲリラに少し共感を覚えてしまうのは否めない。

だって政府があまりにも横暴なんだもの。地主も金持ちも自分たちの欲しかないし、政府は農民の命なんか虫けら程度にしか考えていないでしょう。

日本が戦後平和になったのは農地改革を徹底的にやったからだ。自分の土地を手にした農民は保守化して共産革命なんぞ見向きもしない。日本では共産主義者は浮いた存在となり、連合赤軍のような一部の過激派が暴れても国民はまったく支持しなかった。

同じことはボリビアでカストロの盟友エルネスト・チェ・ゲバラがゲリラ闘争をやっても地元農民の支持を得られず孤立し最後は捕まって銃殺されてしまったのを見れば分かる。ボリビアは1952年の革命で一応、農地改革をしていたので、農民は保守化してゲリラについていかなかったのだ。

コロンビアでなぜゲリラがこれほど支持され、農民たちがゲリラ闘争へ走ったのか。そのことを一度でも政府は考えたことがあるのだろうか。

FARCが結成されたのとほぼ同時期、キューバで革命思想の勉強と軍事教練を受けて帰ってきた学生たちが「民族解放軍(ELN)」を結成した。結成当初のメンバーはわずか18人だったという。

このFARCとELNがコロンビアの二大ゲリラとなり、今日まで武装闘争を続けていくことになる。

と言ってもコロンビアのゲリラが政府と対等に渡り合える存在になるのはもっと後年の話。この頃は弱小の反政府武装集団に過ぎず、ELNなんかは政府軍に徹底的に叩かれて何度も壊滅状態に追い込まれている。

政府の弾圧と資金不足に困り果てたゲリラたちは、軍資金調達の手段として金持ちを狙った誘拐事件を繰り返すようになる。コロンビアで誘拐が増え始めるのは1960年代後半からだ。

この頃は日本でも東大などで学園紛争が盛んな時期だった。フランスでは学生運動でシャルル・ド・ゴール大統領が辞任に追い込まれ、アメリカでも公民権運動やベトナム反戦運動が盛んだった。

それはコロンビアも同じだった。コロンビアでもキューバ革命の影響を受けた学生たちが学生運動に熱をあげた。ボゴタのサンタンデール工科大学のキャンパスの壁にはチェ・ゲバラの巨大な似顔絵が描かれ、大学構内の広場は「チェ広場」と改名された。

ただ、民主的な先進国と違ったのは当局が学生を物理的に抹殺してしまったことだ。政府は戒厳令を布告して学生運動を徹底弾圧し、学生活動家は秘密警察に連れ去られ二度と戻ってくることはなかった。

平和的なデモをやっただけで消されてしまうのではたまったもんじゃない。学生たちは合法闘争を諦め、多くの活動家がゲリラへ走った。

ゲリラに参加したのは学生だけではない。カトリック教会の神父までもが銃を取りゲリラに入った。

「解放の神学」を掲げてゲリラ闘争に参加したカミロ・トーレス神父がその代表的存在だ。トーレスは教会から破門されるが、この状況を打破するには武装闘争しかないと確信していた。


そりゃそうだ。いくら神に祈ったところで神はパン一切れだってくれやしない。どんなに信仰心が強くても神は絶対に無力な人間を助けてはくれないのである。為政者は信仰の力によって民衆の不満を抑えつけているだけだ。

それに気付いてしまったのだから聖職者なんてやってられない。トーレス神父は機関銃を握りゲリラ戦線に参戦した。しかし引き金を引けない。神に仕える身で人は殺せない。やはりトーレスは所詮、世間知らずのお坊ちゃんだったのだろう。

ELNに参加したトーレス神父は1966年2月15日、サンタンデル州で政府軍パトロール隊の待ち伏せ攻撃の際、戦死した。彼自身は一発も撃たず誰一人殺していない。彼にとっては生まれて初めての戦闘であった。


結局、トーレスは革命家になれなかった。だが彼の死は世界中に衝撃と勇気を与えた。以後、トーレスに続く若者や聖職者が後を絶たなくなるのである。こうしてコロンビアの内戦は新たな局面を迎えていく。


1970年の大統領選には亡命先のスペインから帰国したロハス将軍が立候補し、国民戦線体制の政権たらい回しに飽きた国民の支持を集めた。

ところが結果は保守党のミサエル・パストラーナ・ボレロにわずか5万票の僅差で敗れる。ロハス陣営は不正選挙だとして抗議行動を起こした。

この時、保守党陣営はロハス当選を阻止すべく、なりふり構わぬ不正工作を行なった。ある村では、有権者数よりもはるかに多いパストラーナ票が見つかったという。とにかく投票箱にガンガン投票用紙を詰め込んだのだ。

抗議行動は全国に拡大した。さらに軍内部のロハス派によるクーデター計画も発覚する。政府は非常事態宣言を発令して強行突破を図った。

ロハスはクーデター関与を疑われ自宅軟禁となる。結局、ロハスは5年後に病死。


この不正選挙に対する抗議運動をきっかけに「4月19日運動(M-19)」という左翼ゲリラが結成された。4月19日は不正選挙の行なわれた日である。

M-19は共産主義者から民族主義者まで右から左へいろんな思想を持った連中の「寄せ集め」だった。

それでもM-19は元気なやんちゃ坊主みたいなゲリラだった。FARCが農民ゲリラで、ELNが学生インテリ集団だったのに対し、寄せ集めに過ぎないだけにM-19はイデオロギーも何もなく「とにかく暴れたい」という連中だけが集まっていた。


1974年、国民戦線体制は終了。コロンビアは普通選挙による民主主義国家となったが、自由・保守の二大政党制の壁は分厚く、寡頭体制には何の影響もなかった。

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土屋正裕

Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。

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