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Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。



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コロンビア歴史物語 第8話

1985年11月6日、ボゴタの最高裁判所兼法務省ビル(正義宮殿)にM-19のメンバー35名が侵入し、市民や最高裁長官と判事12人、国会議員など500人以上を人質に取って立てこもった。

M-19はベタンクール大統領との「和平のための直接交渉」を要求した。だが、最高裁を包囲した政府軍部隊はすぐさま攻撃を開始し、戦車まで使って強行突入した。

人質のアルフォンソ・レイエス最高裁長官による必死の攻撃中止要請にも関わらず、政府軍は28時間にもわたる激しい銃撃戦の末に最高裁に突入し、ゲリラ全員を射殺して強引に事件を解決した。

5年前のドミニカ大使館占拠事件で犯人をキューバに逃がした政府は、この時とばかり意趣返しをした。ゲリラは全滅したが、判事11人と市民60人を含む人質115人も巻き添えで犠牲となった。


ところが、この事件、後に分かったことだが、すべて政府によって仕組まれた「茶番劇」だったのである。

事件を起こしたM-19の最高幹部カルロス・ピサロは、エスコバルから最高裁長官の暗殺と麻薬関連書類の焼却を依頼され、230万ドルで引き受けた。

しかしエスコバルは裏で軍とも取り引きし、自分の身柄をアメリカに引き渡そうとしている最高裁長官を人質もろとも殺害し、エスコバルのこれまでの罪状を記した書類も最高裁と一緒に燃やしてしまったのだ。

これはゲリラを潰したい政府の思惑とも一致する。この事件で幹部のほとんどを失ったM-19は急速に弱体化し、5年後には政府との和平に応じて武装解除してしまった。


この年はコロンビアにとっては厄年で、11月13日にはアンデス山中のネバド・デル・ルイス火山(標高5399メートル)が大爆発し、一瞬にして2万3千人が死亡した。

この時、首まで泥水に浸かりながら救出を待ち続け、とうとう間に合わずに死んでいった13歳の少女オマイラ・サンチェスの映像を覚えている人もいるだろう。世界中が涙した悲劇だ。

実はこの時、アメリカ政府は救助隊の派遣を拒否していた。コロンビア政府が麻薬取り締まりに消極的だから、という理由だ。

踏んだり蹴ったり、泣き面に蜂とはこのことだろう。いつの世も一番泣きを見るのは無力な庶民だ。筆者(土屋)は確信する。神などいない。


1986年に就任したビルヒリオ・バルコ大統領は、麻薬マフィアへの取り締まりを強めていく。これに対抗してエスコバル率いるメデジン・カルテルは政府要人や警察・司法関係者に対するテロを繰り返す。

カルテルのメンバーを逮捕した警官は家族もろとも殺害された。メンバーに有罪を宣告した判事も同じだった。カルテルに殺された裁判官だけで80人にも上るというから凄まじい。

カルテルの攻撃対象は政府関係者に留まらず、カルテルに批判的な記事を書いたエル・エスペクタドール新聞の社屋も爆破された。ヤクザが言論弾圧をするのだから凄まじすぎる。

1989年8月18日、バルコ大統領はメデジン・カルテルに対して「全面戦争」を宣言。軍・警察の治安部隊を総動員してカルテルの壊滅を図る。カルテルも政府に対し宣戦布告し、コロンビアはまさに「麻薬戦争」の真っ只中に突入していくのである。


1980年代後半から90年代前半にかけて、コロンビアでは「麻薬カルテル戦争」による暴力の嵐が吹き荒れることになる。

バルコ大統領の宣戦布告にエスコバルは無差別テロで応えた。1989年12月6日、ボゴタの国家保安局(DAS)本部ビルに推定500キロのダイナマイトを積んだトラックが突入。大爆発を起こし、死者62人、重軽傷者600人以上を出した。

DASは捕らえていたエスコバルの腹心、ロドリゲス・ガチャの息子を釈放し、尾行をつけた。果たしてガチャの息子はスクレ州コベナスの親父の隠れ家に向かった。チャンスだ。ただちに対テロ特殊部隊が急襲。ガチャと息子、その家族ら15人を殺害することで報復した。

カルテルの反撃もまた凄まじかった。1990年の大統領選。エスコバルは「反麻薬」の姿勢を打ち出す候補者を次々に葬っていった。選挙戦期間中に4人の候補者が暗殺されたというのだから凄まじい。だが、当選したのは対麻薬強硬派の自由党セサル・ガビリアだった。

ガビリア大統領はアメリカ政府の援助を得て麻薬カルテルに対する包囲網を狭めていった。この時、アメリカの大統領はブッシュだ。あのバカ息子の親父である。ブッシュ政権は89年にパナマに侵攻、麻薬の売人ノリエガ将軍を捕らえたのと同じようにコロンビアに米軍を派遣し、エスコバルとその仲間たちを捕らえてメデジン・カルテルを壊滅させようと意気込んでいた。

しかしコロンビアは主権国家である。ブッシュ政権がパナマでやったように自国を無差別爆撃されたんじゃたまらない。アメリカが本気になる前に片付けてしまうしかなかった。

この頃になると、さすがのエスコバルも落ち目になっていた。政府の絶え間ない追及に加え、ライバルの組織であるカリ・カルテルが台頭し、縄張り争いが激化し、エスコバル自身も常に身辺に警護を置いておかないと命も危うい状況になっていたのである。

絶頂期のエスコバルは麻薬の稼ぎを惜し気もなく貧乏人に分け与え、気前よく貧困層向けの学校や病院、住宅、図書館、さらにはサッカー・スタジアムまで建設し、慈善事業のようなことをやっていた。

政府に見捨てられた人々に、政府に代わって救いの手を差し伸べていたのである。ヤクザが公共事業をやったのだ。ゆえにエスコバルは敵も多かったが、彼を慕う人間も多かった。「現代のロビン・フッド」などと呼ばれていた。貧乏人にとってエスコバルはまさに「神」だったのである。


そんなコロンビアの麻薬帝国の帝王にも陰りが見えてきた。政府やライバルとの戦いに疲れたエスコバルは1991年6月、自分の身柄をアメリカ当局に引き渡さないことを条件に政府に投降した。

彼の故郷エンビガドにはカテドラルという豪華な「刑務所」が建てられた。プール付きの大邸宅である。エスコバルはここで5年間の「服役」を義務付けられるに留まった。電話もファックスも使い放題。外出も自由。ショッピングやサッカー観戦もOK。まさに至れり尽くせりだ。刑務所の看守もみんな買収されていたのだから当然である。

ここでエスコバルは悠々自適な暮らしを送りながら、外部の仲間と連絡を取り、相変わらずせっせとアメリカにコカインを密輸した。無論、こんなことを世界の警察官アメリカが許しておくはずがない。

CIA(米中央情報局)とDEA(麻薬取締局)による極秘の作戦が開始された。エスコバルを拉致してアメリカに連行しようというものだ。が、この情報はただちにエスコバルに漏れてしまった。


1992年7月22日、エスコバルは自宅兼刑務所から脱獄した。自分の金で建てた刑務所から脱獄したなんてもう漫画である。エスコバルは正門から堂々と歩いて出ていったが、誰も追いかける者はいなかったという。

その後の1年半はアメリカ当局の威信をかけた追跡とエスコバルの必死の抵抗だ。エスコバルは「メデジンの反逆者」というテロ組織を作り、自分をアメリカに売り渡そうとするコロンビア政府にテロで対抗した。

一方、エスコバルに家族を殺された者たちも黙ってはいなかった。彼らは「ロス・ペペス」という暗殺団を結成し、エスコバルの手下を次々に血祭りに上げていった。ロス・ペペスとは「パブロ・エスコバルに迫害された者たち」の意味のスペイン語の頭文字を取った名前である。

ロス・ペペスは殺害現場に必ず証拠を残していったという。コロンビアのアンティオキア地方には、

「愛情は10倍に、憎悪は100倍にして返せ」

という諺がある。彼らは恨みを忘れず徹底的に報復する主義なのだ。


世界の超大国アメリカ相手に暴れまくったエスコバルにも、とうとう年貢の納め時がやって来た。1993年12月2日のことである。

この日、エスコバルはメデジン市内の隠れ家に潜伏していた。息子に掛けた2分半の電話が命取りになった。コロンビア治安当局の傍受班が電話の逆探知に成功したのである。

ただちにコロンビア軍の特殊部隊がアジトに突入した。エスコバルは銃撃戦の末に蜂の巣にされて殺された。

エスコバルの死によってメデジン・カルテルは大打撃を受け、その後、幹部のほとんどが逮捕あるいは殺害されて壊滅状態に追い込まれた。エスコバルの家族は現在、アルゼンチンで暮らしているという。

コロンビア政府の徹底的な掃討作戦で第2の麻薬カルテル「カリ・カルテル」の幹部ロドリゲス兄弟も95年6月に逮捕され、カルテルは壊滅。麻薬戦争は政府側の全面勝利で終わった。

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