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Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。



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解放者~El Libertador~ 第1話

解放者~El Libertador~


南アメリカ大陸の北部に位置する国・コロンビア。

かつて黄金郷(エル・ドラード)伝説を生み出したこの地は、温暖な気候と肥沃な大地、豊富な資源に恵まれており、16世紀の半ば、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたスペイン帝国のコンキスタドール(征服者)たちに征服されるまで、先住民チブチャ族の文化が栄え、ペルーのインカ帝国にも劣らぬ高度な文明を持ち、平和な暮らしを営んでいた。

チブチャ族はタイロナとムイスカの二つの氏族に分かれ、ムイスカ族の都・バカタ(現在のコロンビア共和国の首都ボゴタ)はアンデス山脈の海抜2640メートルの高原に位置し、赤道直下にありながら温帯性気候に属し、年間平均気温は摂氏15度前後、年中春か秋のような気候で「常春の都」「天国に最も近い都」と呼ばれる。

現在のコロンビアに初めて到達したヨーロッパ人は、クリストファー・コロンブスの第2回航海に参加したスペイン人アロンソ・デ・オヘーダであり、1500年、カリブ海沿岸のラ・グアヒーラ半島に到着し、1525年7月29日、ロドリーゴ・デ・バスティーダスがサンタマルタに最初の植民地を建設した。

1533年にはペドロ・デ・エレディアによってカルタヘナ・デ・インディアスが建設され、スペインによる植民地支配が本格的に開始される。

スペイン人たちは内陸の地に黄金郷伝説があることを知り、1536年4月、ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダが率いる探検隊を派遣する。

探検隊はコロンビアの中央部を流れる大河マグダレーナ川を苦心惨憺の末に遡上し、1537年3月、ムイスカ族の住むボゴタ高地に到達した。

1538年8月6日、ゴンサロの軍はバカタを攻め滅ぼし、ここに現在の首都ボゴタを築いた。

ゴンサロはこの地を自らの故郷・グラナダ(スペイン語で柘榴の意味)に因んでヌエバ・グラナダ(新しいグラナダの意)と命名し、黄金郷伝説発祥の地であるボゴタ郊外のグアタビータ湖に到着した。

同じ頃、ベネズエラからオリノコ川を遡ってボゴタに到着したドイツ人ニコラス・フェーデルマンと、エクアドルからボゴタにやってきたインカ帝国の征服者フランシスコ・ピサロの部下セバスチャン・デ・ベラルカサルがグアタビータ湖でゴンサロと遭遇する。

当時のスペイン国王カルロス1世には南アメリカ大陸の開発資金がなかったため、ドイツのヴェルザー銀行にベネズエラの開発権を譲渡し、同銀行に依頼されたフェーデルマンが黄金を求めてコロンビアにやってきたのである。

この三者による戦利品の獲得競争は、カルロス1世の調停により、三者のいずれにも勝利は与えられず、ヌエバ・グラナダの支配権はサンタマルタ総督の息子に与えられた。

16世紀、コロンビアを探検したスペイン人は、

「ここには我々が求めているものが何でもある」

と書き記している。

その恵まれた土地を圧倒的な武力で征服したスペイン人は、この地に過酷な植民地支配を敷いた。

平和に暮らしていた先住民のインディオたちは抵抗する術もなく、男は虐殺されて奴隷にされ、女は犯され異人の子を産み落とした。

さらに悲惨を極めたのは征服者たちが旧大陸から持ち込んだ天然痘や麻疹などの疫病であった。

未知の伝染病への免疫を持たなかったインディオたちは、虐殺と略奪の次に襲いかかってきた疫病の猛威に蹂躙され、その多くが朽ち果て、滅び消えていった。

16世紀後半、ペルー副王カスタニェダは本国に宛てた手紙の中で、こう書き残している。

「街道の両側は大量のしゃれこうべで埋まっている。息が詰まりそうな死臭が漂い、空には死肉に群がるハゲタカどもが恐ろしい鳴き声を上げて飛び交っている……」

スペインの植民地支配がいかに過酷を極めたかは、16世紀当時、新大陸に1千万人はいたと推定されるインディオが、わずか200年足らずの間に10分の1の100万人にまで激減してしまったことを見ても分かる。

かろうじて生き残ったインディオたちは、人里離れた険しいアンデスの山奥や、奥深い密林の中に逃れ、息を潜めて細々と生き延びるしかなかった。

コロンビアのアンデスに暮らすインディオの酋長は、

「スペイン人は聖書とランス(槍)を持ってやってきた」

と吐き捨てるように語る。

インディオたちは鉱山や農園での重労働に使役され、厳しい環境に耐え切れずに死に絶えると、征服者たちは彼らの代わりにアフリカ大陸から黒人奴隷を導入した。

彼らの末裔はアフロ・コロンビアーノ(アフリカ系コロンビア人)として、現在も総人口の約4割を占めている。

スペインの過酷な植民地支配は、じつに300年近くもの間続いた。

1717年5月27日、スペイン植民地政府はペルー副王領から分離してヌエバ・グラナダ副王領を設置し、ムイスカ族の都バカタがあった地に現在の首都ボゴタを建設する。

ヌエバ・グラナダ副王領は財政難のため、1723年に廃止されるが、1739年に再び創設された。

1781年3月16日、ソコロ地方(現在のサンタンデール県)で、タバコ税などの重税と物価高騰に苦しむヌエバ・グラナダの市民が立ち上がった。

「コムネーロスの乱」と呼ばれるこの反乱は、クリオーリョ(現地生まれの白人)が主体だったが、虐げられていたインディオや奴隷も加わり、参加者は2万人に膨れ上がり、反乱軍の要求も重税撤回から独立にまで膨らんだ。

ボゴタ副王フローレスは、反乱軍とボゴタ郊外シパキラで会談し、税の減免と反乱指導者の免責を約束したが、フローレスはこれを反故にして反乱軍の司令官ホセ・アントニオ・ガランを捕らえると、見せしめのためボゴタで四つ裂きの極刑に処した。

この大規模な反乱は失敗に終わったが、19世紀に入り、本国スペインではカルロス4世と息子フェルナンド7世の対立に付け込む形で1808年、ナポレオン・ボナパルトの率いるフランス帝国軍に侵略され、ナポレオンの兄・ジョゼフがスペイン王位に就任すると、フランス傀儡のスペイン王室への忠誠を拒むラテンアメリカ植民地で独立の動きが加速していく。

1810年7月20日、アントニオ・ナリーニョがボゴタ副王を追放し、最高執政評議会を設置して「クンディナマルカ共和国」の独立を宣言する。これがコロンビアの独立記念日である。

その後、ナリーニョを中心とするボゴタの独立派は中央集権制を主張し、カミロ・トーレスを中心とするカリブ海沿岸の独立派は連邦制を主張。両者の対立と混乱に付け入る形で1814年2月、スペイン本国でフェルナンド7世が即位して絶対王政が復活する。

独立派は王党派に各地で連戦連敗を重ね、ボゴタの独立政府は崩壊に追い込まれた。独立派指導者のナリーニョは捕らえられ、スペインの監獄に投獄された。

この時、ベネズエラで独立戦争を指揮していたシモン・ボリーバルは、カルタヘナの共和国政府から解放軍の最高司令官に就任するよう打診される。要請を快諾したボリーバルは王党派の牙城であるクンディナマルカ地方の奪還作戦に着手する。

ボリーバルは1814年末にはスペイン帝国軍との降伏協定を取り付け、王党派に占拠されていたボゴタを解放したが、1815年2月、フェルナンド7世は勇猛な将軍パブロ・モリーリョ指揮下の王党軍1万の大軍を派遣。カルタヘナにおける4ヵ月にもわたる激戦の末、解放軍は壊滅し、ボリーバルは命からがらカリブ海の島ジャマイカに亡命した。

亡命先のジャマイカでボリーバルは南アメリカ独立の大義と統一を訴える書簡「ジャマイカからの手紙」を記す。この時点で、長く苦しい独立への戦いは始まったばかりであった。

1816年5月、独立派最後の拠点であったボゴタが陥落。カミロ・トーレスをはじめとする独立派活動家多数が王党軍に処刑され、モリーリョ将軍の徹底的な弾圧は、これまで独立に消極的な姿勢だった人々の反感を招き、ヌエバ・グラナダ全土で独立の気運が高まっていく。

物語は独立戦争真っ只中の1819年2月から始まる。この年、ボリーバルは故国ベネズエラ中部のアンゴストゥーラで独立派代表者による会合を開き、2月15日に「アンゴストゥーラ大会議」を開催する。

この席上、統一されたコロンビア共和国の独立と、ボリーバルの大統領就任、解放軍の指揮権をボリーバルに委任することで意見が一致し、ここにようやく独立勢力は一本化され、本格的な独立運動に向けて歩調を合わせることができたのである。

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