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解放者~El Libertador~ 第2話

1819年2月15日、ベネズエラ・アンゴストゥーラにおいて――

アンゴストゥーラ(現在のシウダ・ボリーバル)はベネズエラ・ボリーバル州の州都であり、町の北を流れるオリノコ川の港町として1764年に建設された。

周辺は鬱蒼たる密林に囲まれたベネズエラ東部の要衝であり、1817年7月17日、ボリーバルはアンゴストゥーラを攻め落としてここに革命政府の拠点を置き、以後、ティエラ・フィルメ(大陸の意味だが、ここでは現在のベネズエラとコロンビアを指す)解放の戦いを推し進めていくことになる。

町の高台にはコロニアル様式の教会や建物が立ち並び、その一角にある白亜の洋館は息を呑むような美しい夕焼けで鮮やかな紅色に染まり、見る者に郷愁と望郷の念を抱かせた。

広い食堂の大きなマホガニーの机には白い清潔なテーブル・クロスが敷かれ、銀の燭台には蝋燭が灯されていた。

厨房では、肥えた黒人の女中が牛の肉の大きな塊を焙っていた。肉の焼ける匂いが風に乗って屋敷の中に広がっていた。

食堂の椅子には、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍が座っていた。漆を塗ったような将軍の黒髪はいつもぬれぬれと光っていて、ちょび髭は将軍の大柄な体躯に似合わぬ可愛らしさで愛嬌を添えていた。

ヌエバ・グラナダのロサリオ・デ・ククタ出身の将軍は、今年で27歳になる。父親はカカオ農園を経営する裕福なクリオーリョであり、将軍は13歳でボゴタの名門校コレヒオ・マヨール・デ・サンバルトロメ学院に入学、法学を修めた秀才だった。

18歳の若さで独立運動に身を投じ、下士官から始まってボリーバルと出会い、以来、ボリーバルの“右腕”として幾多の戦塵にまみれてきた。云わば、ボリーバルが最も頼みとする勇将であった。

小柄なボリーバルと並ぶと、一体どちらが大将で下士官なのか分からぬほど、堂々たる風采の将軍は、今年で36歳になるボリーバルの後輩だ。ロンガニーサ(ソーセージ)という渾名を持つ痩身のボリーバルと、彼より年上のような印象を与える骨太の将軍は対照的であり、解放軍の下士官どもが、

「どっちが将軍だか分からねえや」

などと憎まれ口を叩いているのを耳にして、将軍が憤慨するのを苦笑しながらボリーバルは言った。

「人は見かけによらず、とはよく言ったものだ。なるほど、君と私が並んで歩けば、大方の将兵は君が真の将軍だと思うだろうよ。ルソーも言っている。些細なことを気にかけたり、恨みっぽい気性の人間は、常に弱く惨めであるし、精神の高揚はつまらぬことを無視することで得られる、とね。私が多くの友人に恵まれたのは、彼らに寛容だったからで、この例は一般化しうるものだよ」

この日も、ボリーバルはサンタンデールと食事を共にしながら、サンタンデールの報告に相槌を打ち、聞き手に徹していた。

「あの者たちは人の噂が好きなのです。下士官の誰が洗濯屋の女房と出来ているとか、花屋の娘と兵士が駆け落ちしたとか、しまいには荷物を運ぶロバが妊娠したとか、つまらぬことばかり私の耳に入ってきます。これから大事な作戦が始まるというのに、少し軍紀が乱れているような気がします……」

サンタンデールの話を受け流していると、そこにボリーバルの腹心の部下であるホセ・アントニオ・アンソアテギ将軍がやってきた。ボリーバルはアンソアテギに目を向け、(少し肥ったな)と思った。

ヌエバ・グラナダの解放に多大な功績を残したアンソアテギは、この年の11月15日に急逝してしまうのだが、この時すでに病魔に肉体を蝕まれていたのかもしれない。

「ところで、君の御内儀は健やかかね?」

ボリーバルはサンタンデールに訊いた。サンタンデールの妻トゥリアは、その美貌が評判であり、最愛の妻マリア・テレサ・ロドリゲスを亡くしてから生涯独身を貫いたボリーバルも、人妻でなければ手を出していたかもしれない、と思い苦笑した。

「おかげで家内は健康そのものです。戦場に出向く良人の私が、いつも心置きなく戦えるよう尽くしてくれる、よく出来た妻です。ただ、こうも夫婦の生活が甘いものとは思いませんでしたな。妻に未練ができると、後ろ髪を引かれる思いでして……」

などとお惚気を聞かせるサンタンデールにボリーバルは微笑をもって報いたのみである。

これからボリーバルはサンタンデールをヌエバ・グラナダ(現・コロンビア)のカサナーレ地方に潜入させ、独立派の残党を糾合して解放軍を結成し、コロンビアの解放を目指す作戦であった。

もとより、生命の保証はない。王党派の手先はこの地にも多くいて、独立派は見つかり次第投獄され、悪くすれば即決で処刑だ。ボリーバルにも何度、刺客が差し向けられたか分からない。

翌朝、まだ夜が明けきらぬうちにサンタンデールはアンゴストゥーラを出発し、ベネズエラ西部のマンテカールに向かった。

サンタンデールが去ってすぐ、ボリーバルの率いる2500名の部隊もアンゴストゥーラを離れ、アプーレにおいてモリーリョ将軍の王党派軍と交戦した。

2500の将兵のうち2千名はクリオーリョ、奴隷、黒人、先住民であり、残る500名は主にイギリス人を中核とする外人部隊であった。兵士の妻も同伴しており、彼女らは看護婦の役目を果たした。

アプーレはベネズエラとコロンビアの国境地帯に流れるオリノコ川流域のリャノと呼ばれる広大な湿地帯にある州で、雨季には地面の大半が冠水して所々が浮島のようになり、農業には適さず、乾季には青々と牧草の茂る大草原が広がるため、古くから放牧が盛んである。

この地の出身者はジャネーロと呼ばれ、得意の馬術を活かして最強の騎兵部隊を持ち、独立戦争で大活躍することになる。

アプーレの戦いは、独立派・王党派ともに決定的な勝利は得られず、消耗戦に移行した。

6月8日、ボリーバルの部隊はグアスドゥアリートでホセ・アントニオ・パエスの率いるジャネーロの部隊と落ち合い、ボリーバルはパエスに食糧と軍事用の牛馬の提供を要請した。

パエスはボリーバルより7つ年下で、無学で読み書きすらできない粗野な性格の持ち主だったが、勇猛果敢な軍人として知られ、後にベネズエラが独立した後は独裁者として君臨し、ボリーバルと対立することになる。

ボリーバルはパエスにコロンビアのククタへ進軍するよう求めた。これは王党派軍の注意を引き付けておき、ボリーバルの部隊を反対側の国境地帯に進めるための陽動作戦であった。

ところが、パエスの部隊はククタとは反対のサン・フェルナンド・デ・アプーレに向かった。ボリーバルの要請は無視されたのである。

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土屋正裕

Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。

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