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Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。



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解放者~El Libertador~ 第3話

1819年5月23日、ベネズエラ・セテンタ村において――

この日、ボリーバル軍の将校たちはセテンタ村で秘密会議を開き、モリーリョ軍との膠着状態に陥った戦局を打開すべく、ベネズエラよりコロンビアの解放が先決と決し、大きく迂回してアンデス山脈を越え、スペイン軍の裏をかく奇襲作戦に出ることを決定した。

全長8千キロに及ぶ長大なアンデス山脈は、コロンビアで3つの山脈に分かれる。すなわち、西部のオクシデンタル山脈、中央のセントラル山脈、東部のオリエンタル山脈であり、ボリーバルが目指すオリエンタル山脈は1200キロの長さに達し、最も高いところで5400メートルにも達する。

標高4千メートル級の険しいアンデスの山々を、満足な装備もない解放軍の兵士たちが乗り越えることは、まさに命がけの危険を伴うことを意味していた。

解放軍の兵士たちの大半はインディオや黒人奴隷、大農場で酷使される農民たちである。彼らは白い木綿の農民服を着て、マスケット銃を持ち、弾薬を詰めた袋を肩から提げただけの軽装で、靴もなく裸足であった。

解放軍の将校たちは騎乗だが、兵士たちは徒歩で移動し、痩せたロバに物資を積み、木製の台車に載せた大砲を曳いて、アンデス越えという大長征を始めるのだ。

ボリーバルは雪のように白い愛馬に揺られながら、アンデス越え作戦に参加する兵士たちの意気軒昂たる顔触れを眺め、

(彼らのうちで、自由と栄光を勝ち取り、勝利の日を迎えることができる者は、一体、どのくらいいるのだろうか?……)

と考え、行く手の困難を思い、暗澹たる気持ちになった。

部下思いのボリーバルは、解放軍の指揮官に対し、次のような通達を出している。

「部隊は1日に3ないし4レグア(約12~16km)行軍せよ。行程は二つに分け、早朝、2ないし3時間行軍し、午後は暑くなければもう2,3時間行軍すること。部隊は水のある椰子林や丘で野営し、疲労で死傷したりすることのないよう、仮眠を取ること」

ボリーバルは几帳面な性格で、兵士の衣服やサーベルの刃の具合、軍馬の蹄鉄の釘の太さに至るまで、事細かに指示を与えている。

一方で、ボリーバルは内容を確かめずに手紙に署名したり、同時に複数の手紙を口述筆記させたりする癖があることを告白している。

ボリーバルはサンタンデールに打ち明けている。

「私は幼い頃、相次いで父母を亡くした。私の几帳面で慎重な性格と、相反するようなせっかちな性格は、もしかしたら、両親の愛情を受けられずに育ったことに起因するのかもしれない」

1783年7月24日、ベネズエラのカラカスに生まれたボリーバルは、南米でも有数の大富豪の御曹司であり、多くの農園や鉱山を経営する裕福なクリオーリョだったが、幼少期に両親を亡くすと、乳母イポンテと優秀な家庭教師シモン・ロドリゲスの下で養育を受けた。

15歳で軍隊に入隊し、少尉の位を得た後、メキシコを経て、啓蒙主義の自由な空気に満ちたヨーロッパを遊学。スペインで後の妻となるマリアと出会い、熱愛の末に結ばれた。

だが、熱帯の気候になじめなかったマリアは、帰国後わずか1年で熱病のために世を去ってしまう。ボリーバルを南米独立運動に向かわせたのは、マリアの死が直接・間接の原因だったと言われる。

「マリアの死がなければ、私は普通の人生を歩み、普通の生涯を送り、普通の人間として死んでいただろう。私を普通でない人生に向かわせたのは、まさに彼女の死だった」

と後に語ったように、最愛の妻を失った傷心を癒すため、再度ヨーロッパに渡り、フランスで当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった皇帝ナポレオンに仕える。

ナポレオンこそが欧州に自由の種子を撒き、古い因習と封建制を一掃すると期待したものの、ナポレオンが征服した占領地を次々に自分の親族に分け与え、自ら皇帝に即位したのを見て失望し、彼のもとを去った。

その後、祖国で盛り上がる独立運動に興味を持ったボリーバルは、帰国後、ベネズエラの独立活動家フランシスコ・デ・ミランダの下で、その類稀なる才能とカリスマ性を遺憾なく発揮し、大車輪のような活躍を始めるのである。

すでに独立戦争の背景と経緯は述べてきたが、ボリーバルはサンタンデールとの出会いによって初めて革命のエネルギーに点火したと言ってよい。

後に両者の関係は政治的な意見の相違から破局を迎えるのだが、言わばボリーバルとサンタンデールの二人が力を合わせたからこそ、南アメリカの解放は実現されたと言ってもよい。ギリシャ神話のゼウスの二人の息子、カストールとポルクスの双子の兄弟のような両者の関係は、天と地、水と油のような間柄でありながら、互いに欠かせないものであった。

ボリーバルを南米解放という大事業に向かわせたのは、彼の恩師・ロドリゲスとの出会いが大きかった。

ボリーバルが二十歳、二度目の渡欧を果たした際のことであるが、師・ロドリゲスはベネズエラ独立運動に参加して投獄され、釈放後に亡命先の欧州で愛する教え子と再会を果たした。

師弟は共に欧州各地を旅し、1805年8月15日、イタリア・ローマ北東部のモンテ・サクロ(聖山)の丘に足を運んだ。

ここは古代ローマ時代、貴族階級の横暴に抗して市民が立ち上がり、抗議の声を上げて集まった歴史的な場所である。

その「聖山事件」が起きたのは紀元前494年、ボリーバルとロドリゲスが訪れる2300年も前の出来事であった。

この事件が契機となり、ローマ帝国には平民を保護するための護民官が設けられた。言わば、民主主義の先駆けとなった大事件である。

赤く夕日に染まったモンテ・サクロの丘に登った師弟は、眼下に広がるローマ市街を見下ろし、やがて師・ロドリゲスが厳かに言った。

「機は熟した。今こそ立ち上がるべき時だ。ボリーバルよ、君はラテンアメリカ解放のために立ち上がるのだ」

恩師から思いもよらぬ言葉を受け、若き青年ボリーバルは感動と興奮で目の淵をほんのりと赤く染め、高揚感に身を震わせて誓った。

「先生、私は誓います。私たちを繋ぎ止めているスペインの権力の鎖を解き放つその時まで、私はこの腕に安息を与えず、私の心に安らぎを与えないことを!」

歴史が大きく動いた瞬間である。この時、ボリーバルは22歳であった。

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