土屋正裕のブログ
プロフィール

土屋正裕

Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。



最新記事



月別アーカイブ



検索フォーム



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

解放者~El Libertador~ 第4話

あの誓いの日から早14年。この14年間、ボリーバルは恩師への誓いに一度も背いたことはなかった。若き日の感動的な誓いの通り、彼は全身全霊で、南米解放という大いなる事業のために邁進し続けてきた。

1819年6月11日、ボリーバルはベネズエラとコロンビアの国境に近いターメの町でサンタンデールの部隊と合流を果たした。

サンタンデールは5月15日、ベネズエラのマンテカールを出発し、歩兵二中隊、騎兵二大隊の総勢700名の将兵を率いていた。

これにボリーバルの軍勢2500名が合流したので、解放軍は総勢3200名の大部隊となった。

ターメにおける作戦会議で、ボリーバルはアンデス山脈を越える4つのルートを検討した結果、最も危険度の高い道を敢えて選択した。

「しかし、閣下。そこはインディオたちしか知らない、普段は誰も通らない岩だらけの急峻な山道です。寒さも厳しく、非常に危険です」

サンタンデールが懸念を示すと、ボリーバルは少しも表情を変えずに言った。

「敵の目を欺くには、それがもっともよいのだ。スペイン兵も知らない登山道なら、我々は敵の盲点を突いて奇襲をかけられる」

長く苦しい行軍のために、米、ユカ芋、プラタノ(調理用バナナ)、塩漬けの肉など大量の食糧が用意された。

解放軍の本隊は司令官ボリーバルが、前衛部隊を副官サンタンデールが、後衛部隊をアンソアテギ将軍が、それぞれ指揮することになった。出発は3日後の6月14日であった。

アンデス越えの前に立ちはだかったのは、リャノと呼ばれる広大な湿地帯だった。雨季(3~5月、9~11月)は過ぎていたが、この年はやけに長引いた。連日の雨で沼地は腰まで沈む泥沼と化し、一行は泥濘の中を1週間も行軍した。

リャノの次は大小無数の河川を渡らねばならなかった。アナウカ川、リパ川、エレ川、クラボ・デル・ノルテ川、ターメ川、カサナーレ川、アリポーロ川、ヌチア川などであった。

濁流に流され溺れ死ぬ兵士や牛馬もいた。毒虫や猛獣もいた。地元のインディオたちが恐れる獰猛なココドゥリロ(ワニ)やカリベ(ピラニア)に襲われる者もいた。

海抜4千メートルを超す険峻なアンデス山脈は、黒い岩肌が露出する山並みの頂に白い万年雪が横たわり、標高が高くなるにつれ、兵士たちの吐く息は白くなり、将校を乗せた軍馬の足並みは乱れ、やがて恐ろしい唸り声を上げて猛吹雪が隊列に襲いかかり、視界は閉ざされて何も見えなくなった。

ようやく吹雪が去ると、鉛色の雲の切れ間から抜けるような青空が見えたのも束の間、激しい雷鳴が轟き、軍馬が恐怖に慄いて暴れ嘶く。さすがのボリーバルも手綱を握り締め、愛馬を落ち着かせるのに難儀した。

風は肌を切りつけるように冷たく、氷雨と霰が叩きつけてきたかと思うと、稲妻が暗い空を切り裂き、急坂から巨石が転がり落ちてくる。まるで、この世の地獄を見ているようであり、生物の侵入を頑なに拒む厳しい自然環境は、征服者スペインの虐殺を逃れた少数の先住民を3世紀にわたって侵略者から守ってきただけのことはあった。

解放軍は風雨と寒さに耐えながら、じわじわと進軍を続けたが、高度が上がるにつれて酸素が希薄になり、体温を奪う厳しい寒気とともにソローチェ(高山病)の脅威も迫り、弱り切った兵士から容赦なく体力を奪っていった。

やがて、力尽きた兵士がバタバタと倒れ、彼らは砂礫の上に横たわるとしばらくは息をしていたが、そのうちに動かなくなった。彼らを介抱する余裕は誰にもなく、倒れて動かなくなった者はそのまま打ち捨てられた。

温暖な気候のアフリカから連れてこられた黒人奴隷たちは寒さに弱く、強靭な肉体の持ち主である奴隷出身の兵士たちも低温と酸欠で次々に倒れ、命を落としていった。

苦難に満ちた行軍の末に、一行はようやく山頂付近のやや開けた場所に達した。ここで休憩を命じたボリーバルは、慣れない高地の過酷な環境に弱り切っている兵士たちを元気付けようと、ラッパ手に軍楽を演奏するよう命じた。

「一曲吹いてくれ。みんなが元気になるようなやつを、な」

軽快な楽曲がアンデスの空と山並みに響き渡った。しばらくは座り込んだまま死人のように動かなかった兵士たちも、やがて力を取り戻し、重たい体を上げる者も出てきた。

このアンデス越えでは、3200名中1400名の兵士が命を落とし、多大な犠牲を払ったとされる。

ボリーバルは独立戦争の最中、世界初の黒人国家であるカリブ海の小国・ハイチを訪れ、アレクサンドル・サベ・ペティオン大統領に援助を要請した。

フランスの植民地だったハイチ(旧名サン・ドマング)では、アフリカの黒人奴隷たちをサトウキビのプランテーションで酷使することにより莫大な富を宗主国にもたらしていたが、苛烈な支配と搾取に抗して立ち上がった黒人奴隷の指導者トゥーサン・ルーヴェルチュールの蜂起によりナポレオン率いるフランス軍を撃退し、1804年1月1日、史上初めての黒人共和国として独立を果たした。

この事件はフランスのみならず、南北アメリカ大陸の白人支配層にも強い衝撃を与え、ボリーバルはサンタンデールに宛てた手紙の中で、

「黒人奴隷の反乱はスペインの侵略の千倍は危険だ。黒人奴隷のコロニーが点在するのは将来にわたって危険であり、彼らを解放軍の兵士として徴用し、屈強な黒人奴隷が戦闘で消耗することにより、潜在的な脅威を軽減させることが可能だ」

と述べており、解放者も黒人奴隷の存在を非常に危惧していたことが分かる。

ボリーバルはサンタンデールにこう言っている。

「コロンビアが“第二のハイチ”になることだけは、どうしても避けなければならない」

ボリーバルには黒人奴隷が過酷な戦場で減少することで、将来の奴隷の反乱を未然に防ぐという狙いがあった。

だが、彼には特別な事情があった。ハイチのペティオン大統領は、逆境にあったボリーバルに「独立後の黒人奴隷の解放」を条件に、物心両面の支援を約束したのである。

ボリーバルはコロンビア独立後の1821年、ペティオン大統領への恩義と約束を果たすため、いち早く奴隷の解放を宣言するが、これには奴隷の雇用主である白人支配層からの反発が根強く、独立戦争を継続する上で、白人支持層の離反を招きかねない危険な選択でもあった。

ボリーバルは寒さに震えながら行軍する黒人兵士たちを馬上から見やりながら、その目にうっすらと涙を浮かべていた。

(私は、彼らが死ぬことを承知で、この困難な作戦を断行した。自由と栄光の日を見ぬままに死んでいく彼らの心境を思うと、この胸が張り裂けそうだ。私は今日、私自身の血を流した。奴隷たちよ、私を憎め。好きなだけ私を恨むがよい。諸君の恨みを甘んじて受けよう。祖国の自由と栄光のために、私は喜んで地獄に堕ちよう……)

スポンサーサイト


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバック URL
http://tsuchiyamasahiro.blog.fc2.com/tb.php/208-ddb4f7c3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。