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解放者~El Libertador~ 第7話

1819年8月7日、コロンビア・ボヤカ高原において――

この日、ボリーバルの率いる解放軍2850名の兵士たちは、ホセ・マリア・バレイロ将軍の率いるスペイン帝国軍2670名と最後の決戦に臨むべく、コロンビア中部・ボヤカ高原に向けて進軍した。

朝露に濡れた草むらの上に腰を下ろし、食事を摂る兵士たちを見回しながら、ボリーバルはサンタンデールに言った。

「何せ一癖も二癖もある連中だし、ここまで持ってくるのは並大抵ではなかったよ。これが最後の戦いになるだろうが、彼らのうち、自由と栄光を手にすることのできる幸運な者は何人いるか、な……」

淋しげな表情を浮かべるボリーバルにサンタンデールは言った。

「私は、かように思うのです。やみくもな奴隷解放より、優秀な白人雇用主による家父長的な奴隷制の方がはるかに人道的で、奴隷たちの幸福につながります。解放軍に参加した者に自由を与え、彼らが幸福をつかめるよう法制度を整えていくのが最もよいのではないか、と……」

自他共に現実主義者を認めるサンタンデールは、ともすれば根っからの理想主義者であるボリーバルと意見が対立しがちだったが、ボリーバルとて現実を無視して理想を唱えるだけのロマンティストだったわけではなく、奴隷たちの扱いには細心の注意を払っていた。

後にボリーバルは奴隷解放を宣言し、奴隷制度を「最も憎むべき反人間的な制度」と痛烈に批判するのだが、解放後の奴隷たちに自立するだけの力はなく、独立戦争で富と権力を手にしたクリオーリョたちはラティフンディスタ(大地主)となって奴隷制は温存され、ラテンアメリカ諸国は現在まで続く激しい貧富の格差という矛盾と混乱に苦しむことになる。

「問題は、理想と現実の狭間で、いかにして両者のバランスを取るか、です。ここに古今東西の指導者の苦悩があるのです……」

朝靄が漂う高原の清冽な空気を味わいながら、ボリーバルとサンタンデールは並んで歩き、語り合った。

「我々は我々にできることをするしかない。我々の政策と決断が、後世の人々を幸福にし、不幸にもさせるのだ。戦おうな、デル」

親しみを込めて呼んだボリーバルは、サンタンデールと堅い握手を交わした。

ボリーバルとサンタンデールが活躍した時代よりおよそ半世紀の後、コロンビア共和国で制定されたリオ・ネグロ憲法は、教会権力の制限、言論・出版の自由、個人の最大限の自由が保障され、当時、世界で最も進歩的な自由主義憲法と評され、かのフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーは憲法を読んで「ここに天使の国がある!」と絶賛したと言われる。

午前6時、スペイン王党派軍がモタビータを出発し、25キロ北のボヤカに向かったことを斥候が報告した。

ボヤカはボゴタ北方150キロ、アンデス山中に位置し、現在のボヤカ県カーサ・デ・テハに属する。この高原を流れるテアティノス川に架かるエル・プエンテ・デ・ボヤカ橋が地名の由来。この小ぢんまりとした石橋から、サマカ、モタビータ、トゥンハ(北に16キロ)に街道が分かれている。

午前10時、サンタンデールの部隊がトゥンハを出発、16キロ先のカーサ・デ・ピエドラに向かった。

午後1時半、セバスチャン・ディアス大佐の率いるスペイン軍前衛部隊がボヤカに到着。後衛部隊は1.5キロ遅れて進軍した。

午後2時、太陽が最も高くなる頃、ボヤカの空は海のような鮮やかさで、所々に綿をちぎったような雲が浮かび、馬上のボリーバルは熱気に曝され、額に大粒の汗を浮かべていた。

1819年8月7日午後1時半、サンタンデール率いる解放軍主力部隊の右翼を固めるアンドレス・イバーラ大佐の部隊がスペイン軍と遭遇。スペイン軍はイバーラ部隊を追撃し、大佐を迎えたサンタンデールは腹心のガブリエル・パリス中佐にただちに迎撃を命じた。

「迎え撃て!これが最後の戦いになる!我々は今こそ3世紀に及ぶ抑圧と屈辱の歴史に終止符を打つのだ!!」

獅子のように叫んだサンタンデールの下で、将兵たちは猛虎のような咆哮を発し、天を突かんばかりの意気を上げ、恨み骨髄に達する仇敵・スペイン軍の部隊に向かって怒涛の突撃を開始した。

解放軍の指揮官はボリーバルやサンタンデールをはじめ、南アメリカのスペイン植民地で生まれた白人支配層が中心だったが、彼らはペニンスラール(本国生まれの白人たち。「半島人」のこと。イベリア半島生まれを意味する)に差別され、同じ白人でも生まれが違うだけで同等に扱われず、常に疎外されてきたという積年の恨みが鬱積している。

人間の恨みほど激しく、根の深いものはない。愛情や友情は簡単に壊れても、憎悪は決して消えることがない。

パリのバスティーユ監獄を襲い、栄耀栄華を極めたブルボン朝を武力で打倒したフランス大革命も、恒常的な貧困に苦しむ農民・市民の怒りが贅沢三昧な暮らしに明け暮れる王侯貴族に向けて爆発したものであった。

1917年のロシア革命も、戦争と重税に苦しむロシアの民衆が無能なロマノフ王朝への怒りを爆発させたものだ。

世界の革命は、そのほとんどが暴力革命であった。人類を進歩させてきたものは、人間が生まれながらに持っている怒りと憎しみの感情なのである。

解放軍の歩兵たちは、鈍く光る重たいマスケット銃を構え、指揮官の号令とともに一斉に銃火をスペイン兵に浴びせた。

耳を劈く激しい銃声とともに猛烈な白煙が辺り一面に立ち込め、濛々たる硝煙で一瞬、敵も味方も互いに見えなくなる。

この時代、連発式の銃器は存在しない。言わば、マスケット銃は「火縄銃に毛が生えた」程度の武器である。銃口から火薬と弾丸を棒で押し込んで固め、弾薬が銃身内部で動いたり、銃口から落ちたりしないよう、兵士はあらかじめ弾薬の包装紙を口の中で噛んで丸め、安定剤として銃口から押し込み、棒で突いて固めておく。

次に火皿に火薬を入れ、零れ落ちないよう金属製の蓋(フリズン)を閉め、撃鉄を引き起こし、標的に狙いを定める。引き金を引くと撃鉄に挟み込まれた火打石がフリズンに当たって火花を散らし、火皿の火薬に引火して弾丸が発射される。

俗に、戦いを始めることを「火蓋を切る」と言うが、この語句は火縄銃の時代に生まれたものだ。マスケット銃と火縄銃に大きな違いはないが、フリントロック式のマスケット銃は点火に火打石(フリント)を使っていた点であり、マッチロック式(火縄銃)と違い、雨天時など悪天候でも使用できるという利点があった。

兵士たちは一斉射撃を加えた後、銃身に弾を込めない状態で、銃身に取り付けた銃剣を槍のように構えて敵陣に突撃するのである。

近代戦のように遮蔽物に身を隠しながら小銃や機関銃を用いての戦闘は不可能であり、最初の一斉射撃で勝敗の趨勢が決まると言っても過言ではない。それだけに、この時代の戦争は、部隊の指揮官に高度な作戦指揮能力と意思決定能力、将兵たちの統率力が要求された。

砲兵たちは木製の台車に載せた真鍮製のカノン砲に火薬と砲弾を詰め込み、砲手が赤々と燃える松明で点火すると、凄まじい砲声が上がり、砲口から火花と白煙が噴き出した。

砲弾はスペイン軍陣営に着弾し、雷鳴のような轟音とともに土砂や砂礫を巻き上げ、軍馬は驚いて棹立ちになり、指揮官は振り落とされ、歩兵たちは耳を押さえて地面に蹲った。

サンタンデールの部隊はカーサ・デ・ピエドラに入り、彼の腹心の部下であるホセ・アントニオ・アンソアテギ将軍の部隊がスペイン軍部隊の中央に果敢に突撃した。

これはディアス大佐の西軍前衛部隊と、バレイロ将軍率いる本隊を分断させる作戦であり、ボリーバルとサンタンデールが事前に練りに練り上げた作戦を寸分の隙もなくやってのけたに過ぎない。

「戦力差から言っても、我々がまともにぶつかって勝てる相手ではない。ここは敵も驚く奇襲作戦で行くしかない。作戦を何度も復唱し、徹底的に頭の中に叩き込め!」

ボリーバルがそう指示したように、解放軍の指揮官たちは作戦内容の隅々まで嚥下し、すでに血肉と化してしまっていた。

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プロフィール

土屋正裕

Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。

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