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Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。



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解放者~El Libertador~ 第8話
ボヤカの戦い
1819年8月7日午後2時、ボヤカ高原において――

コロンビア・ベネズエラ独立解放連合軍最高司令官シモン・ボリーバル将軍は、ホセ・マリア・バレイロ将軍率いるスペイン帝国王党派軍の後衛部隊に対し突撃作戦を開始した。

この時、カーサ・デ・ピエドラの小高い丘から戦況を見守っていた解放軍副官フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍は、敬愛する司令官が果敢に先陣を切って敵軍の真っ只中に突入したのを見て、慌てて焦げ茶色の愛馬を走らせ、大将のもとへ急いだ。これに側近の将軍たちも続く。

「前に出すぎですぞ!お控えください!」

小石を跳ね上げ、土塊を蹴飛ばして突進してきたサンタンデールに、ボリーバルは一瞥をくれたが、

「構わん!この程度の修羅場を切り抜けずにティエラ・フィルメ(大陸)の解放などありえぬ!」

ボリーバルは白い愛馬を巧みに操りながら敵陣に斬り込み、右手にサーベルを、左手に手綱をしっかりと握りしめ、駆け寄ってくる敵兵を一刀の下に斬り捨てた。

まだ若い兵士は額を押さえて戦闘不能になった。とどめを刺す必要はない。敵の出鼻を挫くことができれば、無駄に血を流すことはないのだ。無意味な殺傷はかえって友軍の評判を落とし、敵を勢い付かせるだけだった。

「これはたんなる復讐ではない。抑圧者から人民を解放し、人々に自由と栄光を分け与えるための戦いだ。諸君は、そのことを肝に銘じなければならぬ」

かねてからボリーバルが配下の将兵たちに言い聞かせていたように、この戦争は残忍な血の復讐ではなく、崇高な目的のための尊い犠牲――祖国と人民を解放し、自由と栄光を勝ち取るための流血なのであった。

この時、西軍はカーサ・デ・ピエドラ近くの小さな丘に退却し、3門の大砲を中心に、本国からの派遣部隊が円陣を形成し、両翼を騎兵部隊が固めていた。

「突き進め!突き進め!」

ボリーバルは将兵たちを叱咤激励し、

「バルセロナ大隊とブラボー・デ・パエス大隊はスペイン軍の右翼を攻撃しろ!イギリス大隊およびライフル大隊はスペイン軍左翼を攻撃せよ!」

と命じた。

解放軍は装備の面では西軍に劣っていたが、当時、スペインと敵対関係にあったイギリスやアイルランドから多数の義勇兵が参加しており、士気も高く、紅蓮の炎のような闘志がみなぎりわたっていた。

その頃、カーサ・デ・ピエドラから解放軍の前衛部隊がボヤカ橋から1.5キロ離れてテアティノス川の渡河に成功し、背後から西軍部隊を銃剣で攻撃し始めた。さらに、後衛部隊も徒歩で浅い川を渡り、友軍に加勢した。

ボヤカ高原は目にも鮮やかな山々の緑、どこまでも深い青空、白い雲、咲き乱れる花々と、まことにのどかな風景であったが、解放軍と西軍の血で血を洗うような死闘が繰り広げられ、猛獣の咆哮のような銃声と砲声、地響きのような兵士の足音、濛々たる硝煙と土煙、その下で交わされる命のやり取りと絶叫、悲鳴、怒号、流血に染まる黄色い土、累々と重なり横たわる将兵たちの死骸、それを素足で踏みつけ躓き転がる歩兵たち……まるで天国と地獄が同居したような凄惨な光景が展開されていた。

午後4時、劣勢の西軍はボヤカ橋の上に司令官のフアン・タイラ大佐を残して敗走を始め、総崩れに陥った。

ボリーバルは槍部隊に西軍中央の歩兵部隊の攻撃を命じ、騎兵部隊には敗残兵の追撃と掃討を命じた。

「おのれ、ボリーバルめ!まさか、これほどの勢いがあるとは……」

絶句して馬上に佇むバレイロ将軍は、この時、弱冠25歳の若さ。まだあどけなさの残る色白の貴公子だが、スペイン独立戦争などで戦功を上げた輝かしい経歴の持ち主だった。

バレイロは解放軍の包囲網を突破し、前衛部隊との合流を目指すが、激しい銃砲火の前に断念。駆け寄ってきた腹心の部下フランシスコ・ヒメネス将軍から、

「閣下、このままでは全滅です!ご決断を!」

と迫られ、

「くっ……や、やむを得ん!」

ついに降伏を余儀なくされたのである。

解放軍の兵士たちは血と汗と泥にまみれ、粗末な衣服にマスケット銃を携えただけの身軽な格好だったが、仇敵への怒りと憎悪で死の恐怖をすっかり忘れていた。

恐怖に駆られたスペイン兵は持ち場を離れ、指揮官の制止も耳に入らず、我先にと友軍の兵士を押しのけ押し倒し踏みつけ、混乱し狼狽し、右往左往しつつ転倒し、武器を放り捨てて逃げ出した。

「追え!一人も逃すな!ただし、できる限り生け捕りにせよ!捕虜は情報の宝、金の卵であることを忘れるな!!」

馬上から指示を下すボリーバルは、後に解放軍の兵士が語ったところによると、「この世で最も気高く、美しいもの」に見えたという。

3時間に及んだ戦闘は解放軍の圧勝に終わり、戦場のあちこちで兵士たちが天を仰いで祈り、互いに抱き合って満面を涙に濡らしながら歓呼の声を上げていた。

「勝った!我々は勝ったのだ!3世紀に及んだ抑圧から自由を勝ち取ったのだ!!」

勝利の雄叫びを上げる兵士たちを見守りながら、ボリーバルは長く苦しかったこの戦いの意義を噛み締めていた。

これは抑圧者への復讐や、祖国の解放よりも、もっと大きな意味がある。

富も権力も持たない無名の人民が、3世紀にもわたる暴虐と圧政、抑圧と搾取、差別と迫害から、自らの手で自由と栄光を勝ち取ったのである。

この事実は、抑圧の闇の中で苦しむ者たちに、永遠に希望の光を与え続けることになるだろう。

部下からの報告に指示を与えつつ、ボリーバルは若くして亡くなった妻・マリアの面影を脳裏に思い浮かべていた。

マリアはスペインで知り合い、熱愛の末に結ばれたボリーバル唯一の妻であり、彼女の死は彼に生涯独身を貫かせた。

妻の故国・スペインと戦う宿命を背負わされた我が身の皮肉を噛みしめながら、ボリーバルはマリアの淋しげな笑顔をボヤカの青い空に描いていた。

「敵将バレイロを捕縛!」

伝令が大声で伝えると、海鳴りのような勝鬨が上がり、ボリーバルは愛馬の手綱を強く握りしめた。


※画像はマルティン・トバール画「ボヤカの戦い」。パブリック・ドメインが成立しており、著作権は消滅しています。



※参考文献

 『シモン・ボリーバル-ラテンアメリカ解放者の人と思想』(ホセ・ルイス・サルセド・バスタルド著、水野一訳 春秋社)
 『コロンビア内戦-ゲリラと麻薬と殺戮と』(伊高浩昭、論創社)
 『シモン・ボリーバル-ラテンアメリカ独立の父』(神代修、行路社)
 『ビオレンシアの政治社会史-若き国コロンビアの悪魔払い』(寺澤辰麿、アジア経済研究所)
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解放者~El Libertador~ 第7話

1819年8月7日、コロンビア・ボヤカ高原において――

この日、ボリーバルの率いる解放軍2850名の兵士たちは、ホセ・マリア・バレイロ将軍の率いるスペイン帝国軍2670名と最後の決戦に臨むべく、コロンビア中部・ボヤカ高原に向けて進軍した。

朝露に濡れた草むらの上に腰を下ろし、食事を摂る兵士たちを見回しながら、ボリーバルはサンタンデールに言った。

「何せ一癖も二癖もある連中だし、ここまで持ってくるのは並大抵ではなかったよ。これが最後の戦いになるだろうが、彼らのうち、自由と栄光を手にすることのできる幸運な者は何人いるか、な……」

淋しげな表情を浮かべるボリーバルにサンタンデールは言った。

「私は、かように思うのです。やみくもな奴隷解放より、優秀な白人雇用主による家父長的な奴隷制の方がはるかに人道的で、奴隷たちの幸福につながります。解放軍に参加した者に自由を与え、彼らが幸福をつかめるよう法制度を整えていくのが最もよいのではないか、と……」

自他共に現実主義者を認めるサンタンデールは、ともすれば根っからの理想主義者であるボリーバルと意見が対立しがちだったが、ボリーバルとて現実を無視して理想を唱えるだけのロマンティストだったわけではなく、奴隷たちの扱いには細心の注意を払っていた。

後にボリーバルは奴隷解放を宣言し、奴隷制度を「最も憎むべき反人間的な制度」と痛烈に批判するのだが、解放後の奴隷たちに自立するだけの力はなく、独立戦争で富と権力を手にしたクリオーリョたちはラティフンディスタ(大地主)となって奴隷制は温存され、ラテンアメリカ諸国は現在まで続く激しい貧富の格差という矛盾と混乱に苦しむことになる。

「問題は、理想と現実の狭間で、いかにして両者のバランスを取るか、です。ここに古今東西の指導者の苦悩があるのです……」

朝靄が漂う高原の清冽な空気を味わいながら、ボリーバルとサンタンデールは並んで歩き、語り合った。

「我々は我々にできることをするしかない。我々の政策と決断が、後世の人々を幸福にし、不幸にもさせるのだ。戦おうな、デル」

親しみを込めて呼んだボリーバルは、サンタンデールと堅い握手を交わした。

ボリーバルとサンタンデールが活躍した時代よりおよそ半世紀の後、コロンビア共和国で制定されたリオ・ネグロ憲法は、教会権力の制限、言論・出版の自由、個人の最大限の自由が保障され、当時、世界で最も進歩的な自由主義憲法と評され、かのフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーは憲法を読んで「ここに天使の国がある!」と絶賛したと言われる。

午前6時、スペイン王党派軍がモタビータを出発し、25キロ北のボヤカに向かったことを斥候が報告した。

ボヤカはボゴタ北方150キロ、アンデス山中に位置し、現在のボヤカ県カーサ・デ・テハに属する。この高原を流れるテアティノス川に架かるエル・プエンテ・デ・ボヤカ橋が地名の由来。この小ぢんまりとした石橋から、サマカ、モタビータ、トゥンハ(北に16キロ)に街道が分かれている。

午前10時、サンタンデールの部隊がトゥンハを出発、16キロ先のカーサ・デ・ピエドラに向かった。

午後1時半、セバスチャン・ディアス大佐の率いるスペイン軍前衛部隊がボヤカに到着。後衛部隊は1.5キロ遅れて進軍した。

午後2時、太陽が最も高くなる頃、ボヤカの空は海のような鮮やかさで、所々に綿をちぎったような雲が浮かび、馬上のボリーバルは熱気に曝され、額に大粒の汗を浮かべていた。

1819年8月7日午後1時半、サンタンデール率いる解放軍主力部隊の右翼を固めるアンドレス・イバーラ大佐の部隊がスペイン軍と遭遇。スペイン軍はイバーラ部隊を追撃し、大佐を迎えたサンタンデールは腹心のガブリエル・パリス中佐にただちに迎撃を命じた。

「迎え撃て!これが最後の戦いになる!我々は今こそ3世紀に及ぶ抑圧と屈辱の歴史に終止符を打つのだ!!」

獅子のように叫んだサンタンデールの下で、将兵たちは猛虎のような咆哮を発し、天を突かんばかりの意気を上げ、恨み骨髄に達する仇敵・スペイン軍の部隊に向かって怒涛の突撃を開始した。

解放軍の指揮官はボリーバルやサンタンデールをはじめ、南アメリカのスペイン植民地で生まれた白人支配層が中心だったが、彼らはペニンスラール(本国生まれの白人たち。「半島人」のこと。イベリア半島生まれを意味する)に差別され、同じ白人でも生まれが違うだけで同等に扱われず、常に疎外されてきたという積年の恨みが鬱積している。

人間の恨みほど激しく、根の深いものはない。愛情や友情は簡単に壊れても、憎悪は決して消えることがない。

パリのバスティーユ監獄を襲い、栄耀栄華を極めたブルボン朝を武力で打倒したフランス大革命も、恒常的な貧困に苦しむ農民・市民の怒りが贅沢三昧な暮らしに明け暮れる王侯貴族に向けて爆発したものであった。

1917年のロシア革命も、戦争と重税に苦しむロシアの民衆が無能なロマノフ王朝への怒りを爆発させたものだ。

世界の革命は、そのほとんどが暴力革命であった。人類を進歩させてきたものは、人間が生まれながらに持っている怒りと憎しみの感情なのである。

解放軍の歩兵たちは、鈍く光る重たいマスケット銃を構え、指揮官の号令とともに一斉に銃火をスペイン兵に浴びせた。

耳を劈く激しい銃声とともに猛烈な白煙が辺り一面に立ち込め、濛々たる硝煙で一瞬、敵も味方も互いに見えなくなる。

この時代、連発式の銃器は存在しない。言わば、マスケット銃は「火縄銃に毛が生えた」程度の武器である。銃口から火薬と弾丸を棒で押し込んで固め、弾薬が銃身内部で動いたり、銃口から落ちたりしないよう、兵士はあらかじめ弾薬の包装紙を口の中で噛んで丸め、安定剤として銃口から押し込み、棒で突いて固めておく。

次に火皿に火薬を入れ、零れ落ちないよう金属製の蓋(フリズン)を閉め、撃鉄を引き起こし、標的に狙いを定める。引き金を引くと撃鉄に挟み込まれた火打石がフリズンに当たって火花を散らし、火皿の火薬に引火して弾丸が発射される。

俗に、戦いを始めることを「火蓋を切る」と言うが、この語句は火縄銃の時代に生まれたものだ。マスケット銃と火縄銃に大きな違いはないが、フリントロック式のマスケット銃は点火に火打石(フリント)を使っていた点であり、マッチロック式(火縄銃)と違い、雨天時など悪天候でも使用できるという利点があった。

兵士たちは一斉射撃を加えた後、銃身に弾を込めない状態で、銃身に取り付けた銃剣を槍のように構えて敵陣に突撃するのである。

近代戦のように遮蔽物に身を隠しながら小銃や機関銃を用いての戦闘は不可能であり、最初の一斉射撃で勝敗の趨勢が決まると言っても過言ではない。それだけに、この時代の戦争は、部隊の指揮官に高度な作戦指揮能力と意思決定能力、将兵たちの統率力が要求された。

砲兵たちは木製の台車に載せた真鍮製のカノン砲に火薬と砲弾を詰め込み、砲手が赤々と燃える松明で点火すると、凄まじい砲声が上がり、砲口から火花と白煙が噴き出した。

砲弾はスペイン軍陣営に着弾し、雷鳴のような轟音とともに土砂や砂礫を巻き上げ、軍馬は驚いて棹立ちになり、指揮官は振り落とされ、歩兵たちは耳を押さえて地面に蹲った。

サンタンデールの部隊はカーサ・デ・ピエドラに入り、彼の腹心の部下であるホセ・アントニオ・アンソアテギ将軍の部隊がスペイン軍部隊の中央に果敢に突撃した。

これはディアス大佐の西軍前衛部隊と、バレイロ将軍率いる本隊を分断させる作戦であり、ボリーバルとサンタンデールが事前に練りに練り上げた作戦を寸分の隙もなくやってのけたに過ぎない。

「戦力差から言っても、我々がまともにぶつかって勝てる相手ではない。ここは敵も驚く奇襲作戦で行くしかない。作戦を何度も復唱し、徹底的に頭の中に叩き込め!」

ボリーバルがそう指示したように、解放軍の指揮官たちは作戦内容の隅々まで嚥下し、すでに血肉と化してしまっていた。


解放者~El Libertador~ 第6話

1819年2月26日、ボリーバルがコロンビア大統領に選任されて始まったヌエバ・グラナダ解放作戦(コロンビア独立戦争)は、同年8月10日に首都ボゴタを制圧して終結を見るまで、165日(5ヵ月と15日)にも及んだ。

ベネズエラ領内から2500名の将兵を率いて出発したボリーバルは、大河オリノコ川を遡り、ベネズエラ領アプーレ州クラビーチェに上陸後、アプーレとコロンビア領カサナーレのリャノ(湿地帯)を通過し、無数の支流を渡河し、急峻で長大なアンデス山脈を越える大長征を経て、7月にコロンビア中部の高原に達するまで、その移動距離はじつに1500キロにも達した。

その間、灼熱の大平原、毒虫や猛獣の潜む泥沼と濁流、標高4千メートルから5千メートルにも達する険阻なアンデスの山々という大自然の脅威と戦いながら、強大なスペイン帝国軍を撃破し、祖国と人民を解放し、自由と栄光のために不屈の闘志で戦い抜いた。

ボリーバルにとっては今日が昨日のようであり、昨日が今日のようでもあり、明日が明後日のようにも思える目まぐるしい変転の日々であった。

7月6日、アンデス山中の町ソーチャで部隊を建て直したとき、総勢3200名だった解放軍の兵士は1800名に減っていた。苦難に満ちた行軍の過程で、病死、凍死、餓死、逃亡、行方不明などで多くの将兵を失うとともに、物資を運搬する馬やロバも数多く失った。

ボリーバルのアンデス越えは、ハンニバル・バルカの「アルプス越え」と並ぶ世界史の偉業のひとつとされる。

第二次ポエニ戦争(紀元前218年~紀元前201年)で、カルタゴの名将ハンニバルが兵と象を率いてフランス側からアルプス山脈を越え、歩兵9万と騎兵1万2千の約半数を失いながらもイタリアに侵攻し、軍事的勝利を収めたことは、後年のボリーバルの輝かしい成功と共通するものがある。

1819年7月25日、パンタノ・デ・バルガスの沼において――

この日、ボリーバルとサンタンデールの軍勢は、コロンビア中部パイパ北方10キロに位置するパンタノ・デ・バルガスの沼沢地帯において、スペイン帝国軍と前哨戦の火蓋を切った。

黒い軍服姿のスペイン兵に対し、粗末な衣服に裸足の解放軍兵士はいかにも頼りなく見えた。

圧倒的に不利な状況の中、この戦いで最も素晴らしい働きぶりを見せたのは、ボリーバルが“頼みの綱”としていたフアン・ホセ・ロンドン大佐である。

ボリーバルは、この若き大佐にすべてを託していた。ロンドンを側に招き、ボリーバルは眼に火のような光を浮かべて言った。

「この戦いの勝利は君の腕ひとつにかかっている。困難を恐れるな。強さのないところに徳はなく、勇気のないところに栄光はないことを忘れるな!!」

息子を励ます父親のように、まだあどけなさの残るロンドンの小さな肩を抱きしめたボリーバルは、ロンドンが駿馬を駆って勢いよく敵陣に突撃していくのを見送った。

「後に続け!!」

解放軍の兵士たちが一筋の奔流となってスペイン軍陣営に斬り込んだ。たちまち猛烈な怒号と銃声、硝煙と土煙に一面が覆われ、友軍の姿が見えなくなった。

愛馬の手綱をしっかりと握り締め、祈るような気持ちで戦いの行方を見守るボリーバルとサンタンデール……。

一瞬の静寂が戦場を支配した。直後、

「突破したぞっ!!」

伝令の大音声が響いた。ボリーバルとサンタンデール、黄土色の砂塵に包まれた視界に目を凝らした。

そこに見えたものは、軍馬に蹴散らされ、サーベルで斬り払われ、銃剣で突かれ、恐怖に駆られて逃げ出す王党派の兵士たちの無様な姿であった。

「よし、我々も続けっ!!」

ボリーバルがすかさず命じた。サンタンデールが愛馬の横腹を軍靴の踵で蹴った。

6時間に及んだ戦闘は、解放軍の辛勝に終わった。この戦いで、ボリーバルは危うく命を落としかけている。

最大の功労者であるロンドン大佐は、戦闘が終わった時、全身に無数の傷を負い、満身創痍となって手当てを受けていた。

8月5日、標高2880メートルの高原にあるボヤカ県の県都トゥンハにたどり着いたボリーバルの一行は、市民から「解放者」として歓呼の声をもって迎えられた。

ここでボリーバルは最後の決戦に備え、食糧、馬、軍資金を調達するとともに、15歳から40歳までの志願兵1千名を得ることができたのである。


解放者~El Libertador~ 第5話

ボリーバルの軍勢は多大な犠牲を払いながらもアンデス越えに成功し、1819年7月6日、コロンビア中部の町ソーチャに到着した。

解放軍は来るべきスペイン帝国軍との決戦に備え、この町で軍装を解き、ボリーバルは兵士たちに酒食を振る舞った。

独立派の農民たちが嬉々として豚を屠り、赤々と熾した炭火で肉が焙られ、兵士たちの杯にはなみなみと葡萄酒が注がれた。

人間の生活の基本は食欲、性欲、睡眠欲である。これらの欲望が満たされていれば、大方の人間は人生に不満を覚えぬものだ。つまるところ、それだけの欲が満たされれば、人は幸福を感じる生き物なのだ。

言わば、当たり前の欲求だ。その欲求が満たされぬとき、人は敢然と権力に抗う。有史以来、人類の歴史はその繰り返しである。

ボリーバルはサンタンデールに言った。

「我々はモーセの十戒のように、杖で紅海を割って、ヘブライ人をファラオのエジプト軍から救おうとしているのではない。ただ、当たり前の自由を人民に与えるため、命がけで戦っているのだ」

すべての人間は飲み、食べ、眠るという当たり前の営みが保障されてこそ、人間的な生き方が可能になる。その“当たり前の自由”が奪われたとき、人間は命を賭して戦いを挑む。

ふかふかした藁のベッドでぐっすりと眠り、夜明けと共に目覚めたボリーバルはバスタブにたっぷりと湯を張り、忠実な老僕のホセ・パラシオスに髭を当たらせた。

それからボリーバルはオーデコロンをたっぷりと手に取り、贅肉のない引き締まった体躯に塗り込んだ。軍服に身を固め、パラシオスが淹れた熱いコーヒーを飲む。

ボリーバルは朝食を摂らない。満腹だと思考が回らないからだ。少し空腹の方がちょうどよいのだ。

持病というほどでもないが、ボリーバルは頑固な便秘に悩まされてきた。子供の頃からのもので、毎朝、苦いセンナの瀉下剤を飲まされるのを日課とした。

「私はねえ、小さい頃から一日だって体の具合がよかったことはないよ。尾籠な話だが、私はすっきりと排便した記憶が一度もない。一度でいいから、出るものをさっぱりと出し切ってみたいものだ」

しみじみと語るボリーバルにサンタンデールは、

「それで、病気などはしたことがないのですか?」

と訊いた。

「ないよ。自分勝手に持薬を飲んだりしているが、大病をしたことは一度もない。これで気が強い方だからね、私も」

晩年、ボリーバルは肺結核を患い、47年の短い生涯を閉じることになるが、苛烈な独立戦争の最中においても、決して丈夫とは言えぬ彼の肉体は発病を許さず、この年(1819年)だけでも馬やロバ、船や徒歩で4千キロにも及ぶ行程を踏破した。

もしかしたら、ボリーバルの鋼のような強靭な精神力が、小柄な体躯に病魔の跳梁を許さなかったのかもしれない。

また、発病の余地もないくらいに、ボリーバルの生涯は劇的で、熱く激しく短いものであった。

ある時、こんなことがあった。

ベネズエラにおける独立戦争の最中、ボリーバルはカルロス・マヌエル・ピアルという白人と黒人の混血(ムラート)出身の下士官を軍令違背の罪で銃殺刑に処した。

この時、ボリーバルは減刑を拒否し、ピアルの死刑執行命令書に署名したが、刑の執行には立ち会わず、銃声が聞こえてくると彼は目に涙を浮かべ、部下を処刑させたことを悔やんだという。

ピアルの処刑については、解放軍の内部でも相当な批判もあったが、ボリーバルは黒人が嫌いで、黒人の血が流れているピアルを嫌って処刑したのだ、という風評が流れた。

解放軍兵士の多数を占める黒人の反乱を恐れたサンタンデールに、

「構わんのだ。私のような者がいなければ、組織というものは到底、成り立たんよ。私は嫌われ者で結構だ」

とボリーバルは意に介さなかった。

後にグラン・コロンビア(大コロンビア)共和国の初代大統領に就任したボリーバルは、綱紀粛正のため厳しい法を設け、

「たとえ1ペソでも国庫の金を盗んだ者は死罪とする」

と宣言した。いかに彼が罪を憎み、人を愛していたか分かる。


解放者~El Libertador~ 第4話

あの誓いの日から早14年。この14年間、ボリーバルは恩師への誓いに一度も背いたことはなかった。若き日の感動的な誓いの通り、彼は全身全霊で、南米解放という大いなる事業のために邁進し続けてきた。

1819年6月11日、ボリーバルはベネズエラとコロンビアの国境に近いターメの町でサンタンデールの部隊と合流を果たした。

サンタンデールは5月15日、ベネズエラのマンテカールを出発し、歩兵二中隊、騎兵二大隊の総勢700名の将兵を率いていた。

これにボリーバルの軍勢2500名が合流したので、解放軍は総勢3200名の大部隊となった。

ターメにおける作戦会議で、ボリーバルはアンデス山脈を越える4つのルートを検討した結果、最も危険度の高い道を敢えて選択した。

「しかし、閣下。そこはインディオたちしか知らない、普段は誰も通らない岩だらけの急峻な山道です。寒さも厳しく、非常に危険です」

サンタンデールが懸念を示すと、ボリーバルは少しも表情を変えずに言った。

「敵の目を欺くには、それがもっともよいのだ。スペイン兵も知らない登山道なら、我々は敵の盲点を突いて奇襲をかけられる」

長く苦しい行軍のために、米、ユカ芋、プラタノ(調理用バナナ)、塩漬けの肉など大量の食糧が用意された。

解放軍の本隊は司令官ボリーバルが、前衛部隊を副官サンタンデールが、後衛部隊をアンソアテギ将軍が、それぞれ指揮することになった。出発は3日後の6月14日であった。

アンデス越えの前に立ちはだかったのは、リャノと呼ばれる広大な湿地帯だった。雨季(3~5月、9~11月)は過ぎていたが、この年はやけに長引いた。連日の雨で沼地は腰まで沈む泥沼と化し、一行は泥濘の中を1週間も行軍した。

リャノの次は大小無数の河川を渡らねばならなかった。アナウカ川、リパ川、エレ川、クラボ・デル・ノルテ川、ターメ川、カサナーレ川、アリポーロ川、ヌチア川などであった。

濁流に流され溺れ死ぬ兵士や牛馬もいた。毒虫や猛獣もいた。地元のインディオたちが恐れる獰猛なココドゥリロ(ワニ)やカリベ(ピラニア)に襲われる者もいた。

海抜4千メートルを超す険峻なアンデス山脈は、黒い岩肌が露出する山並みの頂に白い万年雪が横たわり、標高が高くなるにつれ、兵士たちの吐く息は白くなり、将校を乗せた軍馬の足並みは乱れ、やがて恐ろしい唸り声を上げて猛吹雪が隊列に襲いかかり、視界は閉ざされて何も見えなくなった。

ようやく吹雪が去ると、鉛色の雲の切れ間から抜けるような青空が見えたのも束の間、激しい雷鳴が轟き、軍馬が恐怖に慄いて暴れ嘶く。さすがのボリーバルも手綱を握り締め、愛馬を落ち着かせるのに難儀した。

風は肌を切りつけるように冷たく、氷雨と霰が叩きつけてきたかと思うと、稲妻が暗い空を切り裂き、急坂から巨石が転がり落ちてくる。まるで、この世の地獄を見ているようであり、生物の侵入を頑なに拒む厳しい自然環境は、征服者スペインの虐殺を逃れた少数の先住民を3世紀にわたって侵略者から守ってきただけのことはあった。

解放軍は風雨と寒さに耐えながら、じわじわと進軍を続けたが、高度が上がるにつれて酸素が希薄になり、体温を奪う厳しい寒気とともにソローチェ(高山病)の脅威も迫り、弱り切った兵士から容赦なく体力を奪っていった。

やがて、力尽きた兵士がバタバタと倒れ、彼らは砂礫の上に横たわるとしばらくは息をしていたが、そのうちに動かなくなった。彼らを介抱する余裕は誰にもなく、倒れて動かなくなった者はそのまま打ち捨てられた。

温暖な気候のアフリカから連れてこられた黒人奴隷たちは寒さに弱く、強靭な肉体の持ち主である奴隷出身の兵士たちも低温と酸欠で次々に倒れ、命を落としていった。

苦難に満ちた行軍の末に、一行はようやく山頂付近のやや開けた場所に達した。ここで休憩を命じたボリーバルは、慣れない高地の過酷な環境に弱り切っている兵士たちを元気付けようと、ラッパ手に軍楽を演奏するよう命じた。

「一曲吹いてくれ。みんなが元気になるようなやつを、な」

軽快な楽曲がアンデスの空と山並みに響き渡った。しばらくは座り込んだまま死人のように動かなかった兵士たちも、やがて力を取り戻し、重たい体を上げる者も出てきた。

このアンデス越えでは、3200名中1400名の兵士が命を落とし、多大な犠牲を払ったとされる。

ボリーバルは独立戦争の最中、世界初の黒人国家であるカリブ海の小国・ハイチを訪れ、アレクサンドル・サベ・ペティオン大統領に援助を要請した。

フランスの植民地だったハイチ(旧名サン・ドマング)では、アフリカの黒人奴隷たちをサトウキビのプランテーションで酷使することにより莫大な富を宗主国にもたらしていたが、苛烈な支配と搾取に抗して立ち上がった黒人奴隷の指導者トゥーサン・ルーヴェルチュールの蜂起によりナポレオン率いるフランス軍を撃退し、1804年1月1日、史上初めての黒人共和国として独立を果たした。

この事件はフランスのみならず、南北アメリカ大陸の白人支配層にも強い衝撃を与え、ボリーバルはサンタンデールに宛てた手紙の中で、

「黒人奴隷の反乱はスペインの侵略の千倍は危険だ。黒人奴隷のコロニーが点在するのは将来にわたって危険であり、彼らを解放軍の兵士として徴用し、屈強な黒人奴隷が戦闘で消耗することにより、潜在的な脅威を軽減させることが可能だ」

と述べており、解放者も黒人奴隷の存在を非常に危惧していたことが分かる。

ボリーバルはサンタンデールにこう言っている。

「コロンビアが“第二のハイチ”になることだけは、どうしても避けなければならない」

ボリーバルには黒人奴隷が過酷な戦場で減少することで、将来の奴隷の反乱を未然に防ぐという狙いがあった。

だが、彼には特別な事情があった。ハイチのペティオン大統領は、逆境にあったボリーバルに「独立後の黒人奴隷の解放」を条件に、物心両面の支援を約束したのである。

ボリーバルはコロンビア独立後の1821年、ペティオン大統領への恩義と約束を果たすため、いち早く奴隷の解放を宣言するが、これには奴隷の雇用主である白人支配層からの反発が根強く、独立戦争を継続する上で、白人支持層の離反を招きかねない危険な選択でもあった。

ボリーバルは寒さに震えながら行軍する黒人兵士たちを馬上から見やりながら、その目にうっすらと涙を浮かべていた。

(私は、彼らが死ぬことを承知で、この困難な作戦を断行した。自由と栄光の日を見ぬままに死んでいく彼らの心境を思うと、この胸が張り裂けそうだ。私は今日、私自身の血を流した。奴隷たちよ、私を憎め。好きなだけ私を恨むがよい。諸君の恨みを甘んじて受けよう。祖国の自由と栄光のために、私は喜んで地獄に堕ちよう……)


解放者~El Libertador~ 第3話

1819年5月23日、ベネズエラ・セテンタ村において――

この日、ボリーバル軍の将校たちはセテンタ村で秘密会議を開き、モリーリョ軍との膠着状態に陥った戦局を打開すべく、ベネズエラよりコロンビアの解放が先決と決し、大きく迂回してアンデス山脈を越え、スペイン軍の裏をかく奇襲作戦に出ることを決定した。

全長8千キロに及ぶ長大なアンデス山脈は、コロンビアで3つの山脈に分かれる。すなわち、西部のオクシデンタル山脈、中央のセントラル山脈、東部のオリエンタル山脈であり、ボリーバルが目指すオリエンタル山脈は1200キロの長さに達し、最も高いところで5400メートルにも達する。

標高4千メートル級の険しいアンデスの山々を、満足な装備もない解放軍の兵士たちが乗り越えることは、まさに命がけの危険を伴うことを意味していた。

解放軍の兵士たちの大半はインディオや黒人奴隷、大農場で酷使される農民たちである。彼らは白い木綿の農民服を着て、マスケット銃を持ち、弾薬を詰めた袋を肩から提げただけの軽装で、靴もなく裸足であった。

解放軍の将校たちは騎乗だが、兵士たちは徒歩で移動し、痩せたロバに物資を積み、木製の台車に載せた大砲を曳いて、アンデス越えという大長征を始めるのだ。

ボリーバルは雪のように白い愛馬に揺られながら、アンデス越え作戦に参加する兵士たちの意気軒昂たる顔触れを眺め、

(彼らのうちで、自由と栄光を勝ち取り、勝利の日を迎えることができる者は、一体、どのくらいいるのだろうか?……)

と考え、行く手の困難を思い、暗澹たる気持ちになった。

部下思いのボリーバルは、解放軍の指揮官に対し、次のような通達を出している。

「部隊は1日に3ないし4レグア(約12~16km)行軍せよ。行程は二つに分け、早朝、2ないし3時間行軍し、午後は暑くなければもう2,3時間行軍すること。部隊は水のある椰子林や丘で野営し、疲労で死傷したりすることのないよう、仮眠を取ること」

ボリーバルは几帳面な性格で、兵士の衣服やサーベルの刃の具合、軍馬の蹄鉄の釘の太さに至るまで、事細かに指示を与えている。

一方で、ボリーバルは内容を確かめずに手紙に署名したり、同時に複数の手紙を口述筆記させたりする癖があることを告白している。

ボリーバルはサンタンデールに打ち明けている。

「私は幼い頃、相次いで父母を亡くした。私の几帳面で慎重な性格と、相反するようなせっかちな性格は、もしかしたら、両親の愛情を受けられずに育ったことに起因するのかもしれない」

1783年7月24日、ベネズエラのカラカスに生まれたボリーバルは、南米でも有数の大富豪の御曹司であり、多くの農園や鉱山を経営する裕福なクリオーリョだったが、幼少期に両親を亡くすと、乳母イポンテと優秀な家庭教師シモン・ロドリゲスの下で養育を受けた。

15歳で軍隊に入隊し、少尉の位を得た後、メキシコを経て、啓蒙主義の自由な空気に満ちたヨーロッパを遊学。スペインで後の妻となるマリアと出会い、熱愛の末に結ばれた。

だが、熱帯の気候になじめなかったマリアは、帰国後わずか1年で熱病のために世を去ってしまう。ボリーバルを南米独立運動に向かわせたのは、マリアの死が直接・間接の原因だったと言われる。

「マリアの死がなければ、私は普通の人生を歩み、普通の生涯を送り、普通の人間として死んでいただろう。私を普通でない人生に向かわせたのは、まさに彼女の死だった」

と後に語ったように、最愛の妻を失った傷心を癒すため、再度ヨーロッパに渡り、フランスで当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった皇帝ナポレオンに仕える。

ナポレオンこそが欧州に自由の種子を撒き、古い因習と封建制を一掃すると期待したものの、ナポレオンが征服した占領地を次々に自分の親族に分け与え、自ら皇帝に即位したのを見て失望し、彼のもとを去った。

その後、祖国で盛り上がる独立運動に興味を持ったボリーバルは、帰国後、ベネズエラの独立活動家フランシスコ・デ・ミランダの下で、その類稀なる才能とカリスマ性を遺憾なく発揮し、大車輪のような活躍を始めるのである。

すでに独立戦争の背景と経緯は述べてきたが、ボリーバルはサンタンデールとの出会いによって初めて革命のエネルギーに点火したと言ってよい。

後に両者の関係は政治的な意見の相違から破局を迎えるのだが、言わばボリーバルとサンタンデールの二人が力を合わせたからこそ、南アメリカの解放は実現されたと言ってもよい。ギリシャ神話のゼウスの二人の息子、カストールとポルクスの双子の兄弟のような両者の関係は、天と地、水と油のような間柄でありながら、互いに欠かせないものであった。

ボリーバルを南米解放という大事業に向かわせたのは、彼の恩師・ロドリゲスとの出会いが大きかった。

ボリーバルが二十歳、二度目の渡欧を果たした際のことであるが、師・ロドリゲスはベネズエラ独立運動に参加して投獄され、釈放後に亡命先の欧州で愛する教え子と再会を果たした。

師弟は共に欧州各地を旅し、1805年8月15日、イタリア・ローマ北東部のモンテ・サクロ(聖山)の丘に足を運んだ。

ここは古代ローマ時代、貴族階級の横暴に抗して市民が立ち上がり、抗議の声を上げて集まった歴史的な場所である。

その「聖山事件」が起きたのは紀元前494年、ボリーバルとロドリゲスが訪れる2300年も前の出来事であった。

この事件が契機となり、ローマ帝国には平民を保護するための護民官が設けられた。言わば、民主主義の先駆けとなった大事件である。

赤く夕日に染まったモンテ・サクロの丘に登った師弟は、眼下に広がるローマ市街を見下ろし、やがて師・ロドリゲスが厳かに言った。

「機は熟した。今こそ立ち上がるべき時だ。ボリーバルよ、君はラテンアメリカ解放のために立ち上がるのだ」

恩師から思いもよらぬ言葉を受け、若き青年ボリーバルは感動と興奮で目の淵をほんのりと赤く染め、高揚感に身を震わせて誓った。

「先生、私は誓います。私たちを繋ぎ止めているスペインの権力の鎖を解き放つその時まで、私はこの腕に安息を与えず、私の心に安らぎを与えないことを!」

歴史が大きく動いた瞬間である。この時、ボリーバルは22歳であった。


解放者~El Libertador~ 第2話

1819年2月15日、ベネズエラ・アンゴストゥーラにおいて――

アンゴストゥーラ(現在のシウダ・ボリーバル)はベネズエラ・ボリーバル州の州都であり、町の北を流れるオリノコ川の港町として1764年に建設された。

周辺は鬱蒼たる密林に囲まれたベネズエラ東部の要衝であり、1817年7月17日、ボリーバルはアンゴストゥーラを攻め落としてここに革命政府の拠点を置き、以後、ティエラ・フィルメ(大陸の意味だが、ここでは現在のベネズエラとコロンビアを指す)解放の戦いを推し進めていくことになる。

町の高台にはコロニアル様式の教会や建物が立ち並び、その一角にある白亜の洋館は息を呑むような美しい夕焼けで鮮やかな紅色に染まり、見る者に郷愁と望郷の念を抱かせた。

広い食堂の大きなマホガニーの机には白い清潔なテーブル・クロスが敷かれ、銀の燭台には蝋燭が灯されていた。

厨房では、肥えた黒人の女中が牛の肉の大きな塊を焙っていた。肉の焼ける匂いが風に乗って屋敷の中に広がっていた。

食堂の椅子には、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍が座っていた。漆を塗ったような将軍の黒髪はいつもぬれぬれと光っていて、ちょび髭は将軍の大柄な体躯に似合わぬ可愛らしさで愛嬌を添えていた。

ヌエバ・グラナダのロサリオ・デ・ククタ出身の将軍は、今年で27歳になる。父親はカカオ農園を経営する裕福なクリオーリョであり、将軍は13歳でボゴタの名門校コレヒオ・マヨール・デ・サンバルトロメ学院に入学、法学を修めた秀才だった。

18歳の若さで独立運動に身を投じ、下士官から始まってボリーバルと出会い、以来、ボリーバルの“右腕”として幾多の戦塵にまみれてきた。云わば、ボリーバルが最も頼みとする勇将であった。

小柄なボリーバルと並ぶと、一体どちらが大将で下士官なのか分からぬほど、堂々たる風采の将軍は、今年で36歳になるボリーバルの後輩だ。ロンガニーサ(ソーセージ)という渾名を持つ痩身のボリーバルと、彼より年上のような印象を与える骨太の将軍は対照的であり、解放軍の下士官どもが、

「どっちが将軍だか分からねえや」

などと憎まれ口を叩いているのを耳にして、将軍が憤慨するのを苦笑しながらボリーバルは言った。

「人は見かけによらず、とはよく言ったものだ。なるほど、君と私が並んで歩けば、大方の将兵は君が真の将軍だと思うだろうよ。ルソーも言っている。些細なことを気にかけたり、恨みっぽい気性の人間は、常に弱く惨めであるし、精神の高揚はつまらぬことを無視することで得られる、とね。私が多くの友人に恵まれたのは、彼らに寛容だったからで、この例は一般化しうるものだよ」

この日も、ボリーバルはサンタンデールと食事を共にしながら、サンタンデールの報告に相槌を打ち、聞き手に徹していた。

「あの者たちは人の噂が好きなのです。下士官の誰が洗濯屋の女房と出来ているとか、花屋の娘と兵士が駆け落ちしたとか、しまいには荷物を運ぶロバが妊娠したとか、つまらぬことばかり私の耳に入ってきます。これから大事な作戦が始まるというのに、少し軍紀が乱れているような気がします……」

サンタンデールの話を受け流していると、そこにボリーバルの腹心の部下であるホセ・アントニオ・アンソアテギ将軍がやってきた。ボリーバルはアンソアテギに目を向け、(少し肥ったな)と思った。

ヌエバ・グラナダの解放に多大な功績を残したアンソアテギは、この年の11月15日に急逝してしまうのだが、この時すでに病魔に肉体を蝕まれていたのかもしれない。

「ところで、君の御内儀は健やかかね?」

ボリーバルはサンタンデールに訊いた。サンタンデールの妻トゥリアは、その美貌が評判であり、最愛の妻マリア・テレサ・ロドリゲスを亡くしてから生涯独身を貫いたボリーバルも、人妻でなければ手を出していたかもしれない、と思い苦笑した。

「おかげで家内は健康そのものです。戦場に出向く良人の私が、いつも心置きなく戦えるよう尽くしてくれる、よく出来た妻です。ただ、こうも夫婦の生活が甘いものとは思いませんでしたな。妻に未練ができると、後ろ髪を引かれる思いでして……」

などとお惚気を聞かせるサンタンデールにボリーバルは微笑をもって報いたのみである。

これからボリーバルはサンタンデールをヌエバ・グラナダ(現・コロンビア)のカサナーレ地方に潜入させ、独立派の残党を糾合して解放軍を結成し、コロンビアの解放を目指す作戦であった。

もとより、生命の保証はない。王党派の手先はこの地にも多くいて、独立派は見つかり次第投獄され、悪くすれば即決で処刑だ。ボリーバルにも何度、刺客が差し向けられたか分からない。

翌朝、まだ夜が明けきらぬうちにサンタンデールはアンゴストゥーラを出発し、ベネズエラ西部のマンテカールに向かった。

サンタンデールが去ってすぐ、ボリーバルの率いる2500名の部隊もアンゴストゥーラを離れ、アプーレにおいてモリーリョ将軍の王党派軍と交戦した。

2500の将兵のうち2千名はクリオーリョ、奴隷、黒人、先住民であり、残る500名は主にイギリス人を中核とする外人部隊であった。兵士の妻も同伴しており、彼女らは看護婦の役目を果たした。

アプーレはベネズエラとコロンビアの国境地帯に流れるオリノコ川流域のリャノと呼ばれる広大な湿地帯にある州で、雨季には地面の大半が冠水して所々が浮島のようになり、農業には適さず、乾季には青々と牧草の茂る大草原が広がるため、古くから放牧が盛んである。

この地の出身者はジャネーロと呼ばれ、得意の馬術を活かして最強の騎兵部隊を持ち、独立戦争で大活躍することになる。

アプーレの戦いは、独立派・王党派ともに決定的な勝利は得られず、消耗戦に移行した。

6月8日、ボリーバルの部隊はグアスドゥアリートでホセ・アントニオ・パエスの率いるジャネーロの部隊と落ち合い、ボリーバルはパエスに食糧と軍事用の牛馬の提供を要請した。

パエスはボリーバルより7つ年下で、無学で読み書きすらできない粗野な性格の持ち主だったが、勇猛果敢な軍人として知られ、後にベネズエラが独立した後は独裁者として君臨し、ボリーバルと対立することになる。

ボリーバルはパエスにコロンビアのククタへ進軍するよう求めた。これは王党派軍の注意を引き付けておき、ボリーバルの部隊を反対側の国境地帯に進めるための陽動作戦であった。

ところが、パエスの部隊はククタとは反対のサン・フェルナンド・デ・アプーレに向かった。ボリーバルの要請は無視されたのである。


解放者~El Libertador~ 第1話

解放者~El Libertador~


南アメリカ大陸の北部に位置する国・コロンビア。

かつて黄金郷(エル・ドラード)伝説を生み出したこの地は、温暖な気候と肥沃な大地、豊富な資源に恵まれており、16世紀の半ば、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたスペイン帝国のコンキスタドール(征服者)たちに征服されるまで、先住民チブチャ族の文化が栄え、ペルーのインカ帝国にも劣らぬ高度な文明を持ち、平和な暮らしを営んでいた。

チブチャ族はタイロナとムイスカの二つの氏族に分かれ、ムイスカ族の都・バカタ(現在のコロンビア共和国の首都ボゴタ)はアンデス山脈の海抜2640メートルの高原に位置し、赤道直下にありながら温帯性気候に属し、年間平均気温は摂氏15度前後、年中春か秋のような気候で「常春の都」「天国に最も近い都」と呼ばれる。

現在のコロンビアに初めて到達したヨーロッパ人は、クリストファー・コロンブスの第2回航海に参加したスペイン人アロンソ・デ・オヘーダであり、1500年、カリブ海沿岸のラ・グアヒーラ半島に到着し、1525年7月29日、ロドリーゴ・デ・バスティーダスがサンタマルタに最初の植民地を建設した。

1533年にはペドロ・デ・エレディアによってカルタヘナ・デ・インディアスが建設され、スペインによる植民地支配が本格的に開始される。

スペイン人たちは内陸の地に黄金郷伝説があることを知り、1536年4月、ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダが率いる探検隊を派遣する。

探検隊はコロンビアの中央部を流れる大河マグダレーナ川を苦心惨憺の末に遡上し、1537年3月、ムイスカ族の住むボゴタ高地に到達した。

1538年8月6日、ゴンサロの軍はバカタを攻め滅ぼし、ここに現在の首都ボゴタを築いた。

ゴンサロはこの地を自らの故郷・グラナダ(スペイン語で柘榴の意味)に因んでヌエバ・グラナダ(新しいグラナダの意)と命名し、黄金郷伝説発祥の地であるボゴタ郊外のグアタビータ湖に到着した。

同じ頃、ベネズエラからオリノコ川を遡ってボゴタに到着したドイツ人ニコラス・フェーデルマンと、エクアドルからボゴタにやってきたインカ帝国の征服者フランシスコ・ピサロの部下セバスチャン・デ・ベラルカサルがグアタビータ湖でゴンサロと遭遇する。

当時のスペイン国王カルロス1世には南アメリカ大陸の開発資金がなかったため、ドイツのヴェルザー銀行にベネズエラの開発権を譲渡し、同銀行に依頼されたフェーデルマンが黄金を求めてコロンビアにやってきたのである。

この三者による戦利品の獲得競争は、カルロス1世の調停により、三者のいずれにも勝利は与えられず、ヌエバ・グラナダの支配権はサンタマルタ総督の息子に与えられた。

16世紀、コロンビアを探検したスペイン人は、

「ここには我々が求めているものが何でもある」

と書き記している。

その恵まれた土地を圧倒的な武力で征服したスペイン人は、この地に過酷な植民地支配を敷いた。

平和に暮らしていた先住民のインディオたちは抵抗する術もなく、男は虐殺されて奴隷にされ、女は犯され異人の子を産み落とした。

さらに悲惨を極めたのは征服者たちが旧大陸から持ち込んだ天然痘や麻疹などの疫病であった。

未知の伝染病への免疫を持たなかったインディオたちは、虐殺と略奪の次に襲いかかってきた疫病の猛威に蹂躙され、その多くが朽ち果て、滅び消えていった。

16世紀後半、ペルー副王カスタニェダは本国に宛てた手紙の中で、こう書き残している。

「街道の両側は大量のしゃれこうべで埋まっている。息が詰まりそうな死臭が漂い、空には死肉に群がるハゲタカどもが恐ろしい鳴き声を上げて飛び交っている……」

スペインの植民地支配がいかに過酷を極めたかは、16世紀当時、新大陸に1千万人はいたと推定されるインディオが、わずか200年足らずの間に10分の1の100万人にまで激減してしまったことを見ても分かる。

かろうじて生き残ったインディオたちは、人里離れた険しいアンデスの山奥や、奥深い密林の中に逃れ、息を潜めて細々と生き延びるしかなかった。

コロンビアのアンデスに暮らすインディオの酋長は、

「スペイン人は聖書とランス(槍)を持ってやってきた」

と吐き捨てるように語る。

インディオたちは鉱山や農園での重労働に使役され、厳しい環境に耐え切れずに死に絶えると、征服者たちは彼らの代わりにアフリカ大陸から黒人奴隷を導入した。

彼らの末裔はアフロ・コロンビアーノ(アフリカ系コロンビア人)として、現在も総人口の約4割を占めている。

スペインの過酷な植民地支配は、じつに300年近くもの間続いた。

1717年5月27日、スペイン植民地政府はペルー副王領から分離してヌエバ・グラナダ副王領を設置し、ムイスカ族の都バカタがあった地に現在の首都ボゴタを建設する。

ヌエバ・グラナダ副王領は財政難のため、1723年に廃止されるが、1739年に再び創設された。

1781年3月16日、ソコロ地方(現在のサンタンデール県)で、タバコ税などの重税と物価高騰に苦しむヌエバ・グラナダの市民が立ち上がった。

「コムネーロスの乱」と呼ばれるこの反乱は、クリオーリョ(現地生まれの白人)が主体だったが、虐げられていたインディオや奴隷も加わり、参加者は2万人に膨れ上がり、反乱軍の要求も重税撤回から独立にまで膨らんだ。

ボゴタ副王フローレスは、反乱軍とボゴタ郊外シパキラで会談し、税の減免と反乱指導者の免責を約束したが、フローレスはこれを反故にして反乱軍の司令官ホセ・アントニオ・ガランを捕らえると、見せしめのためボゴタで四つ裂きの極刑に処した。

この大規模な反乱は失敗に終わったが、19世紀に入り、本国スペインではカルロス4世と息子フェルナンド7世の対立に付け込む形で1808年、ナポレオン・ボナパルトの率いるフランス帝国軍に侵略され、ナポレオンの兄・ジョゼフがスペイン王位に就任すると、フランス傀儡のスペイン王室への忠誠を拒むラテンアメリカ植民地で独立の動きが加速していく。

1810年7月20日、アントニオ・ナリーニョがボゴタ副王を追放し、最高執政評議会を設置して「クンディナマルカ共和国」の独立を宣言する。これがコロンビアの独立記念日である。

その後、ナリーニョを中心とするボゴタの独立派は中央集権制を主張し、カミロ・トーレスを中心とするカリブ海沿岸の独立派は連邦制を主張。両者の対立と混乱に付け入る形で1814年2月、スペイン本国でフェルナンド7世が即位して絶対王政が復活する。

独立派は王党派に各地で連戦連敗を重ね、ボゴタの独立政府は崩壊に追い込まれた。独立派指導者のナリーニョは捕らえられ、スペインの監獄に投獄された。

この時、ベネズエラで独立戦争を指揮していたシモン・ボリーバルは、カルタヘナの共和国政府から解放軍の最高司令官に就任するよう打診される。要請を快諾したボリーバルは王党派の牙城であるクンディナマルカ地方の奪還作戦に着手する。

ボリーバルは1814年末にはスペイン帝国軍との降伏協定を取り付け、王党派に占拠されていたボゴタを解放したが、1815年2月、フェルナンド7世は勇猛な将軍パブロ・モリーリョ指揮下の王党軍1万の大軍を派遣。カルタヘナにおける4ヵ月にもわたる激戦の末、解放軍は壊滅し、ボリーバルは命からがらカリブ海の島ジャマイカに亡命した。

亡命先のジャマイカでボリーバルは南アメリカ独立の大義と統一を訴える書簡「ジャマイカからの手紙」を記す。この時点で、長く苦しい独立への戦いは始まったばかりであった。

1816年5月、独立派最後の拠点であったボゴタが陥落。カミロ・トーレスをはじめとする独立派活動家多数が王党軍に処刑され、モリーリョ将軍の徹底的な弾圧は、これまで独立に消極的な姿勢だった人々の反感を招き、ヌエバ・グラナダ全土で独立の気運が高まっていく。

物語は独立戦争真っ只中の1819年2月から始まる。この年、ボリーバルは故国ベネズエラ中部のアンゴストゥーラで独立派代表者による会合を開き、2月15日に「アンゴストゥーラ大会議」を開催する。

この席上、統一されたコロンビア共和国の独立と、ボリーバルの大統領就任、解放軍の指揮権をボリーバルに委任することで意見が一致し、ここにようやく独立勢力は一本化され、本格的な独立運動に向けて歩調を合わせることができたのである。







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