土屋正裕のブログ
プロフィール

土屋正裕

Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。



最新記事



月別アーカイブ



検索フォーム



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コロンビアへの想い

筆者はコロンビアという国が好きである。

筆者が初めてコロンビアの地を踏んだとき、首都ボゴタの空港で、入国手続きの書類の書き方が分からず、警察官が代わりに書いてくれたことを思い出す。わずかな落とし物も拾ってくれる少女がいた。

「治安の悪い危険な国」というマイナス・イメージとは裏腹に、親切な人が多いのである。

彼らは祖国に誇りを持ち、自国の悪いイメージを払拭しようと励んでいる。

その姿に筆者は心を打たれた。

コロンビアでお世話になった日系人の坪田さんも「コロンビアは素晴らしい」と言っておられたが、実際、この国を訪れたことのある人で、コロンビアを悪く言う人はほとんどいないのではないか。

筆者は、彼らの好意・善意に何かの形で報いたいと思っている。コロンビアがより良い方向に向かってくれることを心から願ってやまない。


スポンサーサイト
コロンビアにおけるラ・ビオレンシアについての考察

ここで、コロンビアにおける政治的な特徴についてまとめてみよう。


・独立以来、基本的に議会制民主主義による政権交代が行なわれてきた
・他のラテンアメリカ諸国のような武力革命は起きていない
・歴史上、武力による政権打倒は3回だけである
・独裁的な政治指導者は少なく、現われても短命政権で終わっている
・一方で内戦が繰り返され、国情が不安定で治安が悪い


コロンビアでは1819年の独立以来、基本的には議会制民主主義と選挙による政権交代が行なわれてきた。

これは初代大統領フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデールが独裁的な政治を嫌い、法治主義による民主的な政治体制を目指したためであり、サンタンデール最大の功績にしてコロンビアの美徳とされている。

政治的には自由・保守両党による二大政党制が19世紀半ばより150年以上も続き、クーデターや独裁が当たり前のように繰り返されてきた他のラテンアメリカ諸国とは大きく異なるのがコロンビアの特徴である。


たとえば、ラテンアメリカ最古の民主主義国とされるチリにおいても、1973年から1990年までの17年間はアウグスト・ピノチェトの軍事独裁政権下にあった。

同じく、1910年のメキシコ革命でポルフィリオ・ディアスの独裁政権を倒し、民主化に成功したメキシコにおいても、2001年まで同国は制度的革命党(PRI)による一党独裁が71年間も続いた。


コロンビアにおいては、1890年代のラファエル・ヌニェス政権、1900年代のホセ・マヌエル・マロキン政権およびラファエル・レイエス政権、そして内戦の真っ只中にあった1950年代のローレアノ・ゴメス政権およびロハス軍事政権などの独裁的な政権は存在したが、いずれも長期に及んだ政権は存在しない。

たとえば、ヌニェスは7年、マロキンは4年、レイエスは5年、ゴメスは3年、ロハスは4年であり、いずれも10年を超える政権は存在しないのである。

例外的に憲法改正で大統領の再選を可能としたアルバロ・ウリベ政権が2期8年であり、彼以前の大統領で8年を超える政権を維持した者は1人も存在しない。

こうした歴史的事実を踏まえたうえで、筆者はコロンビアにおけるラ・ビオレンシア(政治社会的暴力)問題を考察してみたいと思う。


まず第一に、コロンビアでは民主主義の歴史が南米では最長であるにも関わらず、内戦が繰り返され、政情不安と治安の悪化を招いてしまったのであろうか?

コロンビアにおいては過去に3回大規模な内戦が発生し、千日戦争(1899年~1902年)では推定10万人、「暴力の時代」と呼ばれた内戦(1946年~1958年)では推定10万~20万人、そして1960年代前半から現在まで続く内戦では推定22万人の犠牲者を出した。

これらの内戦の特徴は、まず千日戦争および「暴力の時代」の内戦は自由党と保守党の政治的対立を土壌としたものであり、今日の内戦とは性質がまったく異なるということである。


コロンビアにおいては伝統的に国民は自由党か保守党のいずれかの政党に属することが求められ、「コロンビアでは生まれたときにへその緒に政党の名前が書いてある」という冗談もあるほど、二大政党制による支配は根強く続いてきた。

こうした政治的背景には、コロンビアが広大な国土(日本の3倍強)を持ち、険しいアンデス山脈によって国土が分断され、中央政府による統治が地方にまで及びにくかったという地理的要因がある。

これを補うべく、自由党と保守党の政党による支配が地方の隅々にまで及び、国民は属した政党によりその運命までもが決められてしまうという政治的宿命を背負った。

政権交代が行なわれるたびに、中央から地方に至るすべてのポストが入れ替わる。与党は排他的に利益を独占し、野党は既得権益を失って与党および党員に対する敵意・憎悪を募らせる。

選挙による平和的な政権交代が実施されても、中央はいざ知らず、地方では両党間の対立と衝突が発生し、それがビオレンシア(暴力)の土壌を育んできたのである。

この二大政党制の弊害とも言うべき暴力が、コロンビアにおける民主主義の伝統と相反するような暴力の歴史という矛盾した構造を生み出したというべきであろう。


二大政党の対立による暴力は、1950年代後半の「国民戦線協定」により、両党がポストを平等に分担するという合意で解消され、以後、コロンビアでは二大政党制を原因とする暴力は事実上消滅した。

国民戦線体制は1974年に終了したが、その後も2002年まで自由党と保守党による政権交代が続き、コロンビアにおいて複数政党制が機能するようになったのは最近のことである。

このこともコロンビアにおける暴力の発生のひとつの要因である。すなわち、二大政党以外の政党による政治参加が制限されたため、広く国民の政治的ニーズを政治に反映させることが出来ず、反政府ゲリラによるテロが横行する原因となった。

1960年代後半から現在まで続く内戦は、1959年のキューバ革命を契機として、コロンビアにおいても大土地所有制に反対する農民運動や労働争議が活発化したこと、米ソ対立の冷戦下で共産主義の影響を受けた左翼知識人が伝統的なコロンビアの政治体制を批判し、やがて政府に対する武装闘争を開始したことによるものであり、二大政党制を直接の原因とするものではない。

また、1970年代後半から始まったアメリカにおける麻薬ブームと、コロンビアにおける麻薬カルテルの台頭と成長、政治・司法制度の腐敗、社会の混乱による治安の悪化が、コロンビアにおける暴力を激化させた要因である。


以上の点を踏まえ、まとめてみよう。


・コロンビアにおいて二大政党制は必要なものだった
・しかし、二大政党制による弊害が暴力を発生させた
・政党対立後も暴力は解決しなかったが、それは別の要因によるものである
・暴力の蔓延、政治・司法の腐敗が治安を悪化させた


以上のことから、コロンビアは他のラテンアメリカ諸国と比較しても、特に暴力的な国家だったわけではなく、近年の治安悪化の原因は麻薬問題など外的要因が大きい、ということである。


コロンビア歴史物語 第15話

ウリベ政権下でコロンビアの治安は劇的に改善された。かつて農民虐殺を繰り返していたAUCも解体された。2005年に政府と武装解除に合意したAUCは3万6千人のメンバーが投降し、社会復帰の道を歩むことになった。


コロンビア政府はAUCと癒着し彼らの虐殺や麻薬取引を黙認していると国際社会から非難されてきた。

そんな負のイメージを払拭するため、ウリベはAUCに恩赦を与えて解散させたのである。

ウリベは「正義・平和法」を制定し、投降して素直に罪を認めたAUCメンバーに対しては最長8年の刑務所暮らしで許すことにした。農民を大量虐殺した者に8年の刑って甘すぎじゃないか?

AUCを率いていたカルロス・カスターニョは2004年4月に暗殺された。麻薬取引を巡るトラブルから兄・セディジョに殺されたというが、政府に暗殺された可能性もある。

その後、AUCの指導者となったサルバトーレ・マンクーソも政府に投降し、今は麻薬密輸の罪でアメリカの刑務所にいる。

ゲリラを叩くためにさんざん利用しておいて、用済みとなるやさっさと切り捨てる。そんな政府の意図が見える。

ゲリラ対策が成功し順風満帆なウリベ政権だったが、2008年10月には軍がボゴタのスラム街で無職の若者をリクルートし殺害、彼らをゲリラに見せかけて葬っていたことが発覚し大問題になった。

ウリベはただちに軍幹部27人を更迭したが、軍の兵士が戦果を偽装し休暇や報酬を得るために無実の市民を殺害しゲリラに見せかける行為は「ファルソス・ポジティボス(偽りの戦果)」と呼ばれ、半ば常態化していたことが分かっている。

2011年には、過去23年間でファルソス・ポジティボスによる犠牲者が1741人に上ることが分かった。


かつて世界で最も危険な国と言われ、年間3万人が殺され、3千人が誘拐されていたコロンビアも、2002年のウリベ政権の誕生により見違えるように変わった。

中南米最大の左翼ゲリラFARCも今や兵力は6千人に減り、弱体化に歯止めが掛からない。相次ぐ幹部の死で組織は打撃を受け、武装闘争の継続は困難な状況となっている。

2010年6月の大統領選では、連続三選を禁じられたアルバロ・ウリベの事実上の後継者として、国民統一党のフアン・マヌエル・サントス(中道右派)候補が当選を決めた。

サントス新大統領はウリベ政権下で国防大臣を2006年から2009年まで務め、2008年3月のアンデス危機の際にはFARC最高幹部ラウル・レイエス殺害作戦の陣頭指揮を執ったことで知られる。

就任直後の9月23日には、南部メタ県とカケタ県の県境付近において、FARC軍事部門最高指導者のホルヘ・ブリセーニョ・スアレス(通称モノ・ホホイ)を軍・警察部隊の合同作戦で殺害した。

サントス大統領は「コロンビアの恐怖の象徴が死んだ。FARCに対する大きな勝利だ」と述べ、引き続きFARCへの軍事的圧力を強めていく方針を示した。

一方、サントス政権はウリベ政権下で悪化した隣国ベネズエラなど周辺諸国との関係改善を進め、南米で孤立化していたコロンビアの国際的地位の回復に努めた。

ウリベの「忠実な僕(しもべ)」とみなされていたサントスだが、ゲリラ対策では武力一辺倒だったウリベとは異なり、FARCに対して硬軟両用の柔軟な姿勢を示す。

武闘派の幹部に対しては殺害も辞さない強硬路線を貫く一方、穏健派の幹部には対話を呼びかけ、ウリベ政権下で中断されていた和平交渉の再開に乗り出したのである。


就任から2年後の2012年11月、コロンビア政府と最大の左翼ゲリラFARCはキューバの首都ハバナで和平交渉を再開し、キューバ、ノルウェー、チリの各国政府が交渉を仲介することになった。

交渉ではゲリラの政治参加、農地改革、麻薬問題などについて両者の協議が行なわれ、FARCは「今後、身代金目的の民間人の誘拐は行なわない」とする声明を発表するに至った。

FARCが態度を軟化させた背景には、相次ぐ幹部の死で組織が弱体化したこと、後ろ盾となっていたベネズエラのチャベス大統領が2013年3月5日にガンで死去したこと、テロで国民の支持を完全に失い武装闘争路線を継続することが困難になったことなどが挙げられる。


約3年に及ぶ交渉の結果、2015年9月23日、コロンビア政府とFARCは「半年以内に和平を実現させる」ことで合意に達した。

サントス大統領はFARC最高幹部ティモチェンコと会談し、

・重大犯罪に関与していないゲリラ・メンバーに恩赦を与える
・紛争中の重大犯罪を裁くための特別法廷を設置する
・和平合意から60日以内にゲリラの武装解除を行なう
・紛争犠牲者への謝罪と賠償

以上の点で双方が合意したと発表した。

和平を歓迎する声が上がる一方で、内戦の犠牲者からは「ゲリラへの扱いが寛大すぎる」といった批判や、具体的にどのようにしてゲリラに武装解除させるのか、犠牲者への補償は誰がどのような形で負担するのかなど不透明な点が多く、内戦の終結には悲観的な見方もある。

FARCに父親を殺された前大統領ウリベも「茶番だ」と合意を一蹴し、和平路線を推し進めるサントス大統領を痛烈に批判した。


50年以上にわたり20万人以上の犠牲者を出し、700万人以上の国内避難民(アフガニスタンやイラクよりも多い)を生み出した世界で最も長い内戦もようやく終息の兆しが見えつつある。

アルバロ・ウリベという人物は確かにコロンビアの救世主だ。この10年で治安は劇的に改善し、コロンビア国民はテロと誘拐の恐怖から解放された。ゲリラは姿を消し、どこでも好きなところへ行けるようになった。

コロンビアはかつてないほどの安定と繁栄を見せている。ラテンアメリカではブラジル、メキシコに次いで第3位の人口を持ち、豊富な資源、勤勉な国民性、国民の教育水準の高さ等々、コロンビアには無限の可能性があると言ってもいいだろう。




(筆者注)コロンビア政府とFARCは2016年6月22日、キューバの首都ハバナで停戦と武装解除に合意し、9月26日にコロンビアのカルタヘナで和平合意に署名した。和平の是非を問う国民投票が10月2日に行なわれ、反対が賛成を僅差で上回り否決された。サントス大統領は和平への取り組みが評価され、同年のノーベル平和賞を受賞した。11月に和平案は議会で承認され、FARCは国連監視団の監視下で武装解除を進め、コロンビア全土に設けられた26ヵ所の監視所で登録された7132丁の銃器が引き渡された。2017年6月27日、中部メタ県のメセタスで最後の武器引き渡しと武装解除の終了式典が行なわれた。FARCの武装解除により半世紀に及んだ内戦は事実上終結した。
コロンビア歴史物語 第14話

政権発足以来最大の危機を乗り切ったウリベは、以後もゲリラ弾圧の手を緩めず、落ち目のFARCを徹底的に追い詰めていく。

ナンバー2のラウル・レイエスの死の痛手はFARCにとってあまりにも大きすぎた。最高幹部マルランダの後継者と目されていただけに、レイエスを失ったことでFARCはもはや窮地へと追い込まれていくのである。


3月7日、今度はイバン・リオスが殺害された。リオスはFARC最高幹部7人のうちの1人である。リオスを殺したのは彼の部下。しかも身辺警護に当たる護衛だった。彼はリオスを殺した後、リオスの右手首を切断して政府軍に投降した。手を切り落としたのはリオスを殺したという確かな証拠を持っていくためである。リオスの首には賞金が掛けられていた。

リオスを殺した兵士の証言によれば、レイエスの死後、FARC内部に動揺が走り、組織は混乱しているという。殺害の動機はリオスが部下に調理のため火を使うことを禁じたことだった。政府軍に追われる彼らは掃討作戦の強化で食糧の調達も困難になり、昼夜を問わず空腹を抱えながら山の中を逃げ回っているという。


政府の発表によれば、FARCから脱落する者は毎日20人。1年で3千人もの兵士がFARCから抜け出て政府軍に投降した。一時は2万人近い兵力を抱え、日本と同じ面積を支配下に置いていたFARCの面影はもはや影も形もない。ウリベ政権下の6年で組織は確実に弱体化し、ガタガタになっていた。


3月26日、FARCにとって40年来最大の不幸が訪れた。40年以上にわたりFARCを率いて政府と戦い続けてきた最高指導者マヌエル・マルランダが死んだのである。戦死ではなく、突然の心臓発作による病死と発表された。享年77歳。その歳でゲリラはきつかったろう。

側近によれば、マルランダはゲリラを辞めたいとひそかに漏らしていたという。でもこれまで一緒に戦い苦楽を共にしてきた仲間たちの前ではさすがに引退を口にすることは出来なかったのだろう。古来、政治家や指導者というものは孤独だが、組織のトップに立たされてしまうともうまったく自分の自由なんて言ってられないのだ。


FARCの新しい指導者にはアルフォンソ・カノが選ばれた。カノはFARCの思想的指導者である。この人事を巡ってはFARC内部の対立も浮き彫りにされた。マルランダの盟友であるFARC軍事指導者ヘルマンとホルヘのブリセーニョ兄弟がカノと反目し、権力闘争の様相を呈したという。


ホルヘ・ブリセーニョ(通称モノ・ホホイ)はFARCの有能な軍師であり、彼がいなかったらFARCはここまでもたなかっただろうと言われている。モノ・ホホイは欠席裁判で懲役40年を宣告されている。多くの誘拐や暗殺、テロに関わった男だ(彼は2010年9月23日、軍事作戦で殺害される)。


2008年7月2日、コロンビア軍はFARCに誘拐・監禁されていたフランス国籍の女性政治家イングリッド・ベタンクールら人質15人を救出したと発表した。


ベタンクールはフランス人の夫を持つ。フランスとコロンビアでは異色の存在として名の知れた人物で、コロンビア政界の腐敗を厳しく追及し続け、何度となく脅迫や暗殺未遂の憂き目に遭った。

そんなベタンクールが大統領選に出馬したのは2002年。選挙戦の最中の2月23日、無謀にもFARC支配地に足を運び、そのまま誘拐されてしまった。それから6年あまりの歳月が流れていた。


ベタンクールの誘拐はフランスでも大問題だった。彼女はフランス流民主主義にかぶれたエリート政治家なので、コロンビアよりむしろヨーロッパで世間の関心と同情を集め、国際的な救出運動が巻き起こっていた。

2003年7月にはフランス政府が救出作戦を展開。ドビルパン首相(当時)がブラジルに特殊部隊を派遣し、重病のFARC幹部をフランスで治療するのと引き替えにベタンクールの身柄を受け取ろうとしたが、この作戦は失敗する。コロンビア政府は自国の主権を侵害されたと抗議し、当時内相だったニコラ・サルコジ大統領が謝罪するという事態に発展した。

その後は度々、生存情報が伝えられるも事件に進展はなく、すでに死んだとか、ジャングルで病気になり重体とか、いろんな憶測が乱れ飛んだ。パリにいるベタンクールの息子と娘が涙ながらに「母を解放して」とFARCに呼び掛け、フランス政府もベタンクールを解放するならFARCメンバーの亡命を受け入れるとまで約束した。

だが、FARCは頑なに解放を拒んでいた。FARCにとってベタンクールは最大の人質だ。利用価値が高すぎる。FARCは彼女を盾に国際世論を動かし、コロンビア政府を揺さぶり、コロンビアの獄中に囚われている仲間たちを何としても釈放させたかった。

2007年11月に公開されたFARCのビデオでベタンクールのやつれ果てた姿が世界中に衝撃を与え、彼女は肝炎を患い、余命数週間との情報も流れた。

そのベタンクールが6年ぶりに救出されたのである。救出作戦の詳細は次の通り。

コロンビア軍はFARC内部に多数のスパイを潜入させていた。彼らの口を通じてFARC幹部に「偽の人質移送計画」を信じ込ませた。

人質を別の場所に移送する。だが地上を行くのは危険だ。ヘリコプターをチャーターするから、それに乗せて運ぼう、というのだ。

これはFARC最高幹部からの命令としてメールで伝えられた。ベタンクールらを拘束していたFARC幹部はこのメールを信用してしまった。


2日朝、コロンビア南部グアビアレ州のジャングルに1機の大型ヘリが着陸した。何も知らないゲリラがベタンクールらを連れて乗り込んだ。離陸直後、異変が起こった。ゲリラに変装した特殊部隊がゲリラの司令官らを拘束し、15人の人質を救出したのだ。

1発の銃弾も使わず、1人の犠牲者も出さず、人質奪還に成功したのだ。

ベタンクールは意外と元気だった。6年間、毎日米と豆だけの食事。毎年300キロも歩かされていたという。

救出された人質には2003年から拘束されていたアメリカ人3人も含まれていた。彼らは民間軍事会社の傭兵で、コロンビアでのコカ撲滅作戦に参加中、乗っていた飛行機を撃墜されFARCの捕虜になっていたのだ。

FARCは重要な人質をまんまと奪還された上、幹部も捕まってしまった。救出作戦の成功でウリベ政権の支持率はついに90%を超えた。

チャベスを仲介に立てた交渉が始まったときからウリベの計画は始まっていたのだとも思える。チャベスの交渉でゲリラを油断させておき幹部を叩く。そして人質を取り戻すという寸法だ。


5月には「女ランボー」の異名を持つ幹部・通称カリーナも政府に投降した。カリーナは戦闘で右目を失明していた。投降したカリーナはジャングルで抵抗を続ける同志に「武装闘争の時代は終わった。武器を捨てて新しい国造りに参加せよ」と呼び掛けた。

もうFARCの時代は終わった。中南米ではどの国も民主化され、もはや民意は武力に訴えずとも政治に反映される時代になった。ベネズエラもボリビアもエクアドルも民意で選ばれた指導者が国民のために改革を行なっている。ゲリラなんてとっくの昔に時代遅れになっていたのである。

FARCの終焉を見たチャベスも演説で武装闘争の放棄を呼び掛けた。

「ゲリラを辞めて合法闘争の道に戻れ!お前たちのせいでアメリカ帝国主義者に介入の口実を与えてしまうじゃないか!早く武器を捨てろ!」

このチャベスの手の平を返したような発言にFARCは衝撃を受けた。だがFARCも追い詰められれば追い詰められるほど意固地になってしまった。

「答えはノーだ!何度でも言う!千回でも言う!ノーだ!誰がマルランダの剣を捨てるものか!」

と新指導者カノは叫び、これからも社会主義コロンビアの建設に向けてゲリラ戦を続けると明言した。

そのカノも2011年11月4日、南部カウカ県の山岳地帯で10時間にわたる戦闘の末に殺害された。後任にはロドリゴ・ロンドーニョ・エチェベリ(通称:ティモチェンコ司令官)が就任した。

コロンビア歴史物語 第13話

2002年からFARCに誘拐されていた女性国会議員のクララ・ロハスは6年ぶりに解放されたとき、自分を監禁していたゲリラ兵士との間に一児をもうけていた。監禁中にゲリラに強姦されたのか、それとも互いに愛し合って子供を作ったのか、そのどちらかは不明である。

生まれた男の子はジャングルの中で母子ともども厳しい監禁生活を送るわけにもいかず、生後間もなく母の手から引き離され、ボゴタの孤児院に預けられた。

実はこの時、FARCは最後までロハスの解放を渋っていた。母子ともども解放すると約束していたのである。ところが、ロハスの子はすでに孤児院に預けてある。だから母子一緒に解放することは出来ない。おそらくFARCはロハスの子を必死になって捜し、取り戻そうとしていたのだろう。

だがこの時すでにウリベは孤児院に預けられていたロハスの子を捜し出し、もうとっくに赤ん坊は政府の手で保護されていることをアピールしたのである。FARCは母子を解放することで「人道的」なイメージを演出しようとしたのだろうが、見事にウリベに覆されたわけだ。


解放された人質たちはコロンビアのジャングルで国際赤十字のスタッフに引き渡された後、ベネズエラのカラカスにヘリコプターで運ばれ、チャベスの歓迎を受けた。

人質たちは記者会見で交渉を仲介したベネズエラ政府の尽力に感謝し、口々に交渉を妨害したウリベの対応を非難した。マスコミの力は強い。チャベスは人質を利用して意趣返しをしたのだ。チャベスもやるなあ。

さらにチャベスは思想的に近いFARCを擁護し、

「コロンビアのゲリラはテロリストじゃない。反乱軍だ。コロンビアの寡頭体制に抵抗する反乱軍だ。だから彼らを正規の軍隊と認め、テロ組織の指定を解除すべきだ」

などと発言した。これにはコロンビア政府もコロンビアのテロ被害者も反発し激怒した。


だが、これもウリベの計算の内だった。常に冷静なこの男の頭には父を殺したFARCへの復讐のシナリオが描かれていた。


2008年3月1日早朝、コロンビア空軍のジェット戦闘機(ブラジル製スーパー・タカノ)が国境を越えてエクアドル領内に侵入し、国境から10キロも南下した後、急速に方向転換し、国境3キロの地点にあるFARCキャンプを空爆した。

この時、キャンプではFARCナンバー2でスポークスマンのラウル・レイエス(本名ルイス・エドガル・デビア・シルバ)とその家族、兵士らが寝泊まりしていた。

突然の轟音とともに戦闘機からインテリジェンス爆弾が投下された。これは爆発すると周囲700メートルに破片を撒き散らし、地上にいる人間をまんべんなく殺傷するという恐ろしい兵器だ。


この爆撃でレイエスと家族、兵士の計23人が死亡。負傷者も多数出た。夜明けとともにコロンビア軍の特殊部隊が国境を越えてキャンプに入り、レイエスの遺体を回収し、生存者を並べて銃弾を撃ち込み息の根を止めた。そしてコロンビア側に引き揚げた。

当初、この事件を当事国エクアドルのラファエル・コレア大統領は冷静に受け止めていた。ところが、エクアドル軍の現場検証の結果、ゲリラたちが寝ようとしてパジャマ姿だったところを急襲され殺害されたことを知り、烈火の如く怒り出した。


ウリベはコレアに電話で状況を説明し、テロリスト掃討のためのやむを得ない軍事行動だった、事前通告しなかったのは遺憾である、と話した。しかしコレアは自国の主権を踏みにじられたと怒り、コロンビアとの国交を断絶すると言い出したのである。

これに素早く反応したのがチャベスだった。チャベスはただちに軍隊をコロンビアとの国境周辺に配置し、臨戦態勢に入った。

「もしコロンビア政府が自国に対しても同じようなことをするなら、戦争も辞さないから覚悟しておけ!」

という事実上の宣戦布告である。チャベスはエクアドルに飛んでコレアを励まし、ふたりはコロンビアの主権侵害行為を非難すべく周辺国に協力を呼び掛けた。


これに応じてニカラグアのダニエル・オルテガ大統領もコロンビアとの国交を断絶すると表明した。ニカラグアはコロンビアと隣り合っていないが、カリブ海に浮かぶ島の領有権を巡ってコロンビアと対立し、このほど国際司法裁判所がコロンビアの主張を認めてコロンビアに領有権を与えたばかりである。その意趣返しをしたのだ。

事態は二国間の外交問題から南米全体の政治問題に発展した。ただ、強硬なエクアドルとベネズエラに同調する国は限られ、多くの国はコロンビアの行為を非難しながらも事態を静観する構えだった。

アメリカ政府はコロンビアの立場を全面的に支持した。しかし南米でコロンビアを積極的に支持する国はついに現われなかった。


テロリストを殺すために他国の領土を侵犯することも厭わない国は、アメリカとイスラエルくらいのものだ。

襲撃時、エクアドルのキャンプにはメキシコやニカラグアの左翼の学生もいた。負傷者はニカラグアの病院に運ばれ手当てを受けた。

国際的な批判を浴びたウリベはエクアドル政府がゲリラをかくまっていると非難した。そして、とっておきの切り札を切るのである。


3月3日、コロンビア国家警察のビクトル・ナランホ長官はキャンプで押収したFARCのノートパソコンを解析した結果、チャベスがFARCに3億ドルの資金を提供していたことが判明したと発表した。

さらにFARCが核物質のウラン50キロを購入していたことも明らかにした。ウランって原爆を作る気だったのか?いや、FARCにそんな技術力はない。ウランはあくまでも売って資金源にするつもりだったようだ。

それはともかく、チャベスが資金提供をしていたという事実が暴露されてしまったことで、チャベスは苦しい立場に追い込まれた。慌てたチャベスは、

「そんなのコロンビア政府のでっち上げだ!捏造だ!嘘つき政府お得意の捏造に決まってるじゃないか!」

と反論した。しかしインターポール(国際刑事警察機構)による中立的な検証の結果、コンピュータの記録に捏造された痕跡はなかった。するとチャベスは苦し紛れに、

「まったく、コロンビア政府の嘘つきぶりには呆れるわい!インターポールも大した嘘つきのピエロだ!」

と愚痴るだけ。チャベスがゲリラとつながっているのは誰もが知っていることだ。そんな下手な言い訳なんぞ今更通用しない。


子供のケンカじみてきた南米の政治危機は、3月7日、ドミニカ共和国のフェルナンデス大統領の仲介により紛争当事者が互いに握手して仲直り。南米諸国はコロンビアの行為を非難しつつも、制裁などはせず、この問題はうやむやな形で決着したのである。

この外交ゲームの最大の勝者は誰だろうか?素早く南米をまとめて行動力を見せつけたチャベスに軍配が上がりそうだが、筆者(土屋)はウリベの勝利だったと思っている。

「肉を切らせて骨を断つ」

という言葉があるが、ウリベはまさしくそれだ。コレアとチャベスを怒らせ、オルテガにも騒がせておいて、チャベスの資金提供という「爆弾」を落とした。チャベスは振り上げた拳の行き場がなくなり、結局引っ込めざるを得なかった。

ただ、そんなウリベにも誤算があった。エクアドルという南米の小国を舐めていたことである。

南米諸国が結束してコロンビアを非難するという事態は想定外だったのではないか。この外交危機でコロンビアはアメリカの支持は得られたが、南米では浮いた存在となり、最後まで積極的な応援は得られなかった。


コロンビア歴史物語 第12話

2002年5月の大統領選。自由党右派で対テロ強硬派のアルバロ・ウリベ候補が同じく自由党の穏健派オラシオ・セルパ候補を破って当選した。

ウリベはアンティオキアの大地主の出身。ハーバード大学を無試験で卒業したほどの秀才である。彼の父親アルベルト・ウリベは1983年にFARCによって殺害されている。

ゲリラに父を殺された男が大統領になったのだ。ウリベはパストラーナの対話路線を批判し「力による内戦終結」を掲げて多くの国民から支持された。


無論、FARCが黙っているわけがない。2002年8月7日の大統領就任式。就任宣誓の最中、ボゴタの大統領官邸に向けてロケット弾が撃ち込まれた。FARCが仕掛けたロケット砲によるテロ攻撃だった。ウリベは無傷だったが、一部の弾は近くのスラム街に落下し、また関係のない市民が命を奪われた。


FARCによる先制攻撃に対しウリベはすぐさま宣戦布告で応じた。ウリベ政権は「戦争税」を導入し、対ゲリラ戦争に必要な戦費を確保。「テロとの戦い」でアメリカと協同歩調を取ることでアメリカ政府から多額の軍資金を手に入れた。

これを元手に軍の近代化を進めたウリベは「プラン・パトリオタ(愛国計画)」と呼ばれるゲリラ殲滅作戦を実行に移す。軍備を3倍に増強し、FARCの本拠地であるコロンビア南部で大規模な掃討作戦を始めたのである。

やがてウリベ政権の成果は目に見える形で表れ始めた。2000年に3700件あまりも発生していた誘拐事件が5年後の05年には約800件にまで激減。就任時に3万5千件も発生していた殺人事件は3年後に約1万5千件に減少したのである。

ウリベ大統領の支持率も凄い。世論調査では常に支持率は70%を超えている。町から強盗や誘拐犯が消え、安心して外を歩けるようになったのだから、国民が支持しないわけがない。それでもこの数字の高さは異常とも思えるくらいだ。南米の指導者でこれほど国民から支持された人物はいないのではないか。

ウリベの登場でコロンビアは劇的に変化していくことになる。


2002年のウリベ大統領の誕生によってコロンビアは大きく変わった。治安は改善され、かつて世界で最も危険な国と呼ばれたコロンビアは見事に汚名を返上した。

ほんの数年前までは飛ぶ鳥を落とす勢いで、このまま行けばキューバやニカラグアのように武力で政権を奪取するのではないかという話も現実味を帯びたほどの反政府武装勢力コロンビア革命軍(FARC)は大きく勢力を減退させた。

ウリベ政権の徹底的なゲリラ掃討作戦の結果、国土の3分の1を実効支配していたFARCは至る所で包囲され撃滅粉砕された。都市の周辺からゲリラは姿を消し、ベネズエラ国境地帯や南部のジャングル地帯などの辺境の地に追いやられた。


2004年1月12日、エクアドル国境近くでFARCナンバー2の幹部シモン・トリニダ(本名リカルド・パルメラ)が逮捕された。

トリニダは武闘派の幹部だったが、前立腺ガンの治療のため訪れたエクアドルの病院で待ち伏せしていた治安当局によって身柄拘束され、即日コロンビアに引き渡された。

この逮捕作戦「オリオン作戦」はアメリカCIAが協力していた。トリニダの逮捕は政府が捕らえたFARC幹部としては40年来最大の大物だった。

トリニダはアメリカにコカインを密輸した容疑で米捜査当局から逮捕状が出されていた。コロンビア政府はトリニダの身柄をアメリカへ引き渡し、トリニダはワシントンの裁判所で禁固60年を宣告された。

トリニダ逮捕劇はFARC弱体化の序曲であった。以後、FARC幹部は次々に捕らえられていく。

04年2月、FARCの女ゲリラ幹部ソニア(本名オマイラ・カブレラ・ロハス)が政府軍によって逮捕された。ソニアは600トンにも上るコカインをアメリカに密輸した罪に問われている。

同年12月、ベネズエラの首都カラカスでFARC国際部代表のロドリゴ・グランダが拘束された。当初、コロンビア政府はベネズエラ国境近くの町ククタで逮捕したと発表していたが、後にコロンビア秘密警察がベネズエラ軍人に賄賂を払い、カラカスで拉致、コロンビアへ連行したことが発覚した。


この「ロドリゴ・グランダ事件」はコロンビアとベネズエラの外交問題にまで発展する大事件となった。

コロンビアと隣り合うベネズエラは強硬な反米左派ウーゴ・チャベス大統領の国だ。99年に就任したチャベスは社会主義路線を掲げ、キューバのカストロ政権に接近するなど反米傾向を鮮明にしている。

世界5位の産油国であるベネズエラは国民の半数が貧困層とされ、チャベスはこれまで外国資本と国内の富裕層に独占されてきた石油の富を国民に還元することで絶大な支持を誇った。

チャベス政権は国中に低所得者向けの無料の食糧配給所や市価よりも安いスーパーマーケット「人民の家」を設置し、公教育を充実させ文盲を撲滅するなどの成果を上げた。

また外国資本を接収し、ベネズエラ国営石油公社(PDVSA)の人事に露骨に介入、石油価格の底上げを図って減産措置に踏み切り、反対派が多数を占める国会を強制的に解散させ憲法を改正するなど独裁を強めていった。

こうしたチャベスの姿勢はアメリカの反発を招き、CIAはベネズエラの反チャベス派を支援して政権打倒を図った。


2002年4月12日、反チャベス派の軍人・富裕層によるクーデターが発生。チャベスは解任され、ベネズエラの経団連にあたる「フェデカマラス」の会長ペドロ・カルモナが新大統領に就任した。

しかし民主的に選ばれた政権を力ずくで倒したこのクーデターは周辺国の承認を得られず、また国内でもチャベス支持者による大規模なデモが発生。結局、クーデターは三日天下に終わり、チャベスが復職した。

以降、チャベスは反米独裁の傾向をエスカレートさせ、アメリカ外交官を国外追放するなどアメリカとの対立も激化していった。

こうした中で、親米右派のウリベ政権は反米ベネズエラを抑えるためにもアメリカにとって欠かせない存在となっていった。

ウリベは「テロとの戦い」のためなら、隣国の国家主権を侵害してでもテロリストを捕らえることを証明した。これにベネズエラが激しく反発したのである。

ウリベも一歩も引かなかった。ベネズエラ政府は国境を越えて活動する左翼ゲリラを取り締まっていない。テロリストに「聖域」を与えていると反論した。

ベネズエラのホセ・チャコン内務大臣は「FARCが国内に入れば神が命ずるままに捕らえる」と表明した。両国の外交危機は両首脳の8時間にわたる会談によって回避された。


しかし、この事件は大きな「しこり」を残した。チャベスはアメリカがコロンビア政府を動かして自分を倒そうとしているのではないかと疑った。

事実、コロンビアの右派民兵組織はベネズエラに侵入し、反チャベス派と組んでチャベス政権打倒のための策謀を重ねていた。

ベネズエラ国内にコロンビアの民兵が多数潜入し、武器弾薬を集め武装蜂起を計画しているとの噂も流れた。実際にベネズエラ警察はチャベスの暗殺を謀ったとして多くのコロンビア人を逮捕している。


この背後でCIAが動いているのは確かだ。2005年暮れにはベネズエラの反体制派が国内の石油パイプラインを同時に爆破し1万5千人を殺害、これを機に米軍が介入しチャベス政権を倒すという途方もないテロ計画を立てていたことが発覚。関係者が逮捕された。

ベネズエラはイランやキューバ、北朝鮮、ロシアに接近し、自国の石油を安く売ることで世界的な反米包囲網を形成しようとした。また、エクアドルやボリビアなどで相次いで反米政権が生まれたことも、この地域の不安定化を促進した。

チャベスはこれらの南米反米諸国に石油を供給することで親密な関係を築き、南米全体を反米勢力の拠点にすることを計画した。国内で反米ゲリラの掃討を進めるコロンビアにとっては何ともやりにくい状況が出来たわけだ。


アメリカのブッシュ政権は強力にウリベ政権に肩入れした。アメリカ議会はコロンビアに駐留する米海兵隊の上限を400人から800人まで引き上げる法案を可決した。

これらの海兵隊は表向きコロンビア軍をトレーニングするのが目的としている。しかし単なる訓練で800人も兵隊を送る必要はない。実際はコロンビア軍と共同で軍事作戦を行なっている。

隣国コロンビアにこれほど大量のアメリカ軍兵士が駐留し続けていることは、チャベス政権にとって不安以外の何物でもない。いつ国境を越えてベネズエラに侵攻してくるか分からないからだ。


こうしてコロンビアとベネズエラ、さらに南米諸国の関係が微妙で複雑なものになっていく中、ウリベはアメリカの援助で強硬にゲリラ対策を推し進めた。

ウリベは圧倒的な支持を背景に憲法を改正し、それまで大統領は1期4年限りとしていたものを改め、再選を可能とした。

2006年5月の大統領選でウリベは圧勝した。次点の左派候補を40ポイントも引き離すほどの地滑り的大勝だった。

二期目に入ったウリベ政権はゲリラに和平を呼び掛けた。徹底的に叩いて弱体化させ、穏健派のみ残しておいて対話のテーブルに引きずり出し、武装解除させてしまおうという狙いがあったのだろう。

これに応じてELNは40年来初めて停戦に合意した。ウリベは獄中にいたELN最高幹部アントニオ・ガランを釈放し、彼を和平交渉の仲介役に任命した。ELNはウリベ政権下の徹底弾圧でメンバーを減らし、武装闘争の継続が困難な状況に追い込まれていたのだ。


一方、FARCは頑なに和平を拒んだ。二度の和平交渉が失敗し、もはや政府をまったく信用していない彼らは、コロンビアのジャングルに引きこもってコカインを作るしか生き残る道はなくなっていたのである。

そこでウリベは和平交渉の仲介役にチャベスを指名したのである。思想的にゲリラに近いチャベスなら、ゲリラも信頼し打ち解けるだろうと考えたのか。チャベスはウリベの要請を快諾した。

2007年8月からチャベスを仲介して交渉が始まった。この交渉はこれまでの中で最も進展を見せた。チャベスはFARCの老ボス・マルランダに対し、

「お前の身の安全は俺が保障してやるから、いっぺん、こっちに来て話をしようよ」

と呼び掛けた。ベネズエラに来て直接交渉しようというのだ。ところが、これにウリベが水を差す。

「マルランダがベネズエラに行くのは勝手だが、奴を見つけたらただじゃおかない。すぐに殺すか、捕まえて牢屋にぶち込んでやる」

というのだ。ウリベは父を殺したゲリラへの恨みを忘れてはいなかった。常に暗殺を恐れるマルランダは結局、交渉の場に姿を見せることはなかった。


07年11月、決定的な事態が起こる。ウリベが突然、交渉の仲介役からチャベスを外すと言明したのである。チャベスが自分の許可を得ず、勝手にコロンビア軍幹部と話をしたから、というのがその理由だった。

これにはチャベスも激怒した。

「ふざけるな!テメーで勝手に呼んでおいて、ろくに話もさせず、俺をクビにするとは一体どういうことなんでえ?!」

チャベスが怒るのも無理はない。交渉開始からたった3ヵ月で一方的に打ち切ってしまったのである。腹の虫が収まらないチャベスはコロンビアとの外交関係を凍結した。

「コロンビア政府の人間はみんな嘘つきだ!もう、こんな奴らは信用できない!俺はコロンビアとの関係を冷凍庫に放り込む!」

和平交渉をブチ壊したウリベには冷徹な計算があった。つまり、最初から彼はゲリラと交渉する気なんかなかったのである。

ウリベがチャベスを交渉の仲介役から外した理由は、

「自分を通さずにコロンビア軍の幹部と話をしたから」

というものだ。チャベスがコロンビアの軍部と内通し、自分をクーデターで追い出そうと謀っている、というのが表向きの理由だった。

だが、独立以来、一貫して民主主義統治の原則を貫き、軍事クーデターや独裁の経験をほとんど持たないコロンビアでクーデターが起こるなどとは到底思えない。そんなことはウリベだって信じちゃいないだろう。この時点でこの話はウリベの作り話だということが看破できる。

では何故、ウリベはチャベスを交渉の席から外す必要があったのか。そもそも最初からチャベスに仲介を頼む必要などなかったのではないか。


要するにウリベは交渉の成功を望んでいないのである。チャベスの仲介でFARCがジャングルの奥深くに捕らえてある750人の人質(この中には政治家や軍人、警官、アメリカ等の外国人も含まれる)の解放を巡る交渉が進展を見せたとき、ウリベは難癖をつけて、一方的に交渉を潰してしまった。

FARCが人質を解放すれば、それは交渉を仲介したチャベスの得点になってしまう。わざわざ敵国ベネズエラの指導者に得点稼ぎをさせてやる必要はない。

自国で誘拐された人質を隣国の政治家に頼まなければ取り返せないのでは、コロンビア政府の面目は丸つぶれである。チャベスを仲介役に指名したのは、長期の監禁で弱っている人質たちの家族がうるさいからだ。ウリベは渋々、交渉をしているように見せかけたに過ぎないのである。

だから最初からチャベスに用なんてなかった。人質解放交渉がうまくいってほしくないから、ウリベは交渉を踏み潰すチャンスを狙っていたのだ。チャベスはまんまと利用されたわけである。

だが、このまま引き下がるチャベスではない。チャベスはその後も粘り強くFARCとコンタクトを取り、2007年暮れから2008年初めにかけて6人の重要な人質を解放させることに成功した。


コロンビア歴史物語 第11話

アメリカ政府は最新鋭のブラックホーク戦闘ヘリをコロンビア軍に提供し、米軍の教官が対ゲリラ戦の指導に当たった。

コカ栽培地には上空から「グリホサート」という強力な除草剤が撒かれた。ゲリラによる撃墜を恐れ、飛行機は3千メートルという高空から除草剤を撒き散らしたため、除草剤は霧のようになって大気中に広がり、コカだけでなく農民の食べる作物まで枯らした。

除草剤を浴びたバナナは黒く変色し立ち枯れした。さらに除草剤は親水性が高いため、雨水に溶けて地中深くしみ込み、住民の飲料水である地下水を汚染した。

コロンビア南部の農村地帯では健康被害を訴える住民が増え始めた。奇形児の出産率も高くなった。

コロンビア計画は2005年に終了し、これによってアメリカ政府はコロンビアのコカイン産業は大打撃を受けたと宣伝している。だが、麻薬取締局(DEA)は「計画の終了後も米国内に流れ込むコカインの量や質、価格に大きな変化はない」と発表している。なぜか?


取り締まりの厳しくなったコロンビアに代わり、今度はペルーやボリビアの農民たちがコカ栽培を請け負うようになったからである。イタチごっこだ。

コカイン取引では毎年60億ドルの儲けが生まれる。そのうち45億はアメリカのマフィア、14億がメキシコなど中継地のマフィアが握り、コロンビアの取り分はわずか1億ドルに過ぎない。経費を差し引けば農民の手元にはほとんど残らないのである。結局、コカインで一番儲かるのもアメリカなのだ。

貧困という社会問題を解決しない限り、コカ栽培に手を出す農民は後を絶たない。だが当局は除草剤を買う金は出しても、農民たちの生活向上に金を出す気はないようである。一体誰のための何のための麻薬対策なのか?要するに軍需産業が儲けたいという意図がミエミエだ。やるせなくなってくる。


コロンビア政府と左翼ゲリラが和平交渉を続けている間にも、コロンビアから暴力が減ることはなかった。

政府が交渉を続ける一方で、軍はゲリラに対する攻撃を続けていた。ゲリラ支配地への無差別爆撃で女子供が犠牲になっても軍は「テロリストの仕業」と発表し、軍による空爆ではなくゲリラの爆破テロの犠牲者であるかのように見せかける偽装工作を行なった。

AUCは農民虐殺を繰り返し、ゲリラ支持者へのテロを続けた。ゲリラに食事を提供したというだけで一村の住民が丸ごと皆殺しにされたこともある。

FARCはコカレーロス(コカ栽培農民)に3~5割の税を課し、その徴税によって多額の資金を得た。コカ栽培に応じなかったり、納税を拒否した農民は殺された。またAUCへの関与を疑われた農民も暗殺対象となった。

ELNは停戦を拒否し、石油パイプラインの爆破を繰り返した。ある村では爆破によって流れ出た石油に引火し100人以上の村人が焼け死んだ。

FARCは独自の法律を制定し、「富裕税」なるものを設けた。所得が100万ドル以上の者に対して10%を課税したのである。FARCに税を支払わない者は誘拐され、ある女性は首に爆弾を巻きつけられ生きたまま爆殺された。

何度も言うようだが、いつの時代、どこの国でも一番泣きを見るのは無力な庶民である。政府軍に殺され、AUCに殺され、FARCやELNにも殺され、もうコロンビアの農民たちは殺されるために生まれてきたようなものだ。


和平交渉の成果が見られないまま時は流れていった。パストラーナ大統領は紛争の当事者双方に武器を置いて対話のテーブルに着くよう重ねて説得した。だが、コカイン取引といううま味を覚えてしまったFARCもAUCも互いに停戦に応じる気はなかった。

FARCに対する評価はまちまちである。「単なる盗賊に成り下がった」というものから「コロンビアの底辺の人民のために戦っている」という評価までさまざまだ。

だが、無差別テロをやるようになったらおしまいだ。かつてブラジルのテロリスト、カルロス・マリゲーラは、

「無差別テロは絶対にしてはいけない。それをやれば民衆を敵に回し、国家権力にたやすく鎮圧されてしまうだけだ」

と語った。無差別テロをやった組織は、たとえどんなに正当な主張や理由があっても、民衆の支持は得られず、権力に潰されてしまうだけなのである。

筆者(土屋)は共産主義者ではないし、テロリストでもないからFARCを支持する気にはなれない。どんなに取り繕ってもFARCは麻薬と誘拐に味を占めた人民の敵だ。

本当に必要なのは問題の根っこを解決するための努力ではないか。貧困をなくさない限り、ゲリラに走る者は後を絶たないし、暴力がなくなることもない。

ただゲリラを殺し、武力で抑えつければ、その反動は必ずテロという形ではね返ってくる。


2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件は、海を越えたコロンビアの情勢にも大きな影響をもたらした。

アメリカ政府はかねてからFARCをテロ組織とみなしていたが、これを機にコロンビア政府に対して「テロリストとの交渉をやめるよう」圧力を掛けたのである。

パウエル国務長官(当時)は「FARCは西半球で最も凶暴なテロ集団だ」と述べ、アフガニスタンでアルカイダとタリバンに対してやったように、米軍が介入して武力で壊滅させる考えがあることを表明した。

これに驚いたのが当のFARCである。FARCの「外務大臣」でありスポークスマンであるラウル・レイエスは声明を発表し、

「これまで政府との交渉を認められていたのに突然、テロ組織として糾弾されるのは腑に落ちない。エクアドルで木が切り倒されればFARCのせいだと言い、ぺルーで牛が一頭死んでいたらFARCのせいだという。ポストが赤いのも信号が青なのも我々のせいなのか?!」

などと怒りをぶちまけた。何でもかんでも悪いのはテロリストだ!と決め付けるアメリカの態度が気に食わなかったのだろう。


だが、年が明けて2002年を迎えると、コロンビア政府はFARCとの交渉を打ち切り、武力による解決をチラつかせ始めるようになる。

あれほど交渉に前向きだったパストラーナ大統領も「我々はFARCに交渉の意思がないと判断した」と述べ、それまで認めていた南部のDMZ(非武装地帯)からFARCが撤退することを求めてきたのである。

この政府の変心ぶりにFARCは慌てた。米軍が本格介入すればFARCに勝ち目はない。だがアメリカ政府もコロンビアへの武力介入は何としても避けたい、というのが本音だった。

かつてアメリカの社会学者が、

「コロンビアのゲリラはコロンビアの野となり山となり、すでに国土の一部を形成してしまっている」

と述べたように、コロンビアのゲリラは一筋縄ではいかない強敵である。もし米軍が本格介入した場合、アンデスやジャングルを背景としたゲリラ戦に苦しめられ、その被害はベトナムの比ではない。少なくとも40万の兵力が必要であり、しかもその半数は戦死することになるというのだから、さすがのアメリカもこれまで本格介入に踏み切る勇気がなかったのである。

アメリカはアフガン問題で手一杯だった。これからイラクを叩こうという時にコロンビアのことまで構っていられる余裕はない。そこでアメリカ政府は自軍の出血を抑えるためにコロンビア政府を動かしたのである。


2002年2月20日、南部のネイバからボゴタへ向かう国内線プロペラ機が4人組にハイジャックされ、非武装地帯近くのハイウェイに強制着陸させられた。

犯人グループは乗っていた和平交渉担当のホルヘ・エチェン・トゥルバイ上院議員を拉致し、逃走途中の橋を爆破して逃げ去った。

この事件が起こるやただちにパストラーナはFARCの犯行と断定。軍に非武装地帯の奪回作戦に入るよう命じた。

実はこの事件も軍によって仕組まれたとの説がある。確かにタイミングが良すぎる。和平交渉を潰すために軍が一芝居打ったとしても何らおかしくはない。

スクランブル発進した空軍機が200波にも及ぶ猛爆をかけ、陸軍の緊急展開部隊900人が非武装地帯に侵攻した。翌日にはFARCの首都だったサン・ビセンテ・デル・カグアンが陥落。FARC部隊は蹴散らされ、ジャングルに撤収した。

こうしてコロンビア政府は3年に及んだ和平交渉を全面的に打ち切り、ゲリラに対する強硬策へと方針転換したのである。


コロンビア歴史物語 第10話

コロンビア軍は以前から右翼の民兵組織と癒着しながらゲリラや関係者へのテロ攻撃を続けていたが、90年代に入るとさらにやり口は汚さを増してくる。

殺した農民の死体にゲリラの軍服を着せてゲリラに見せかける偽装工作をするのは序の口で、現役の軍人が民兵組織とともに民間人を拉致・拷問したり暗殺といった非常手段を平気で行なうようになるのである。

正体不明の武装集団が政府に異を唱える者を暗殺し、一体誰が誰の命令で殺害を実行したのか誰にも分からない。そんな「グエラ・スーシア(汚い戦争)」の時代に入っていくのである。


1998年、保守党のアンドレス・パストラーナがコロンビア大統領に就任した。パストラーナは1970年の選挙でロハス将軍の当選を阻止したミサエル・パストラーナの息子である。

パストラーナ大統領は反政府左翼ゲリラとの対話による和平実現を公約に掲げた。話し合いでコロンビアに平和をもたらそうとしたのである。

パストラーナは単身、FARCの支配地帯であるコロンビア南部を電撃訪問し、FARC最高指導者のマヌエル・マルランダと会談した。マルランダは熟練の老ゲリラで、ラ・ビオレンシアの時代に虐殺された共産党書記長の名前を名乗り、30年以上にも及ぶゲリラ戦を生き抜いてきた百戦錬磨のプロである。

コロンビア政府とFARCは和平交渉の再開で合意した。出だしは順調だった。翌99年1月から交渉が本格的にスタートした。FARCは和平の条件として、コロンビア南部の広大な地域から政府が軍・警察部隊を撤退させ「非武装地帯(DMZ)」を設置することを要求した。

FARCは政府を信用してはいなかった。84年の和平の苦い教訓を忘れてはいなかったのである。あの時、FARCは停戦に合意し合法政党を立ち上げたものの、その後の白色テロで合法闘争路線を叩き潰されている。

和平に応じ武装解除するにしても、そのための「保障」が必要だったのである。武器を捨てた途端、皆殺しにされたのではたまったものではない。非武装地帯の設置を要求したのはそのためだった。


99年5月、パストラーナはコロンビア南部の約4.2万平方キロメートルの面積を非武装地帯とし、駐留する国軍と警察の全部隊に撤退を命じた。こうして出来た非武装地帯は日本の九州よりも広かった。

パストラーナの決定に軍や警察の高官は猛反発し、一斉に大統領に辞表を提出する騒ぎとなった。彼らは大統領の決定に反対したばかりでなく、退職するやただちに右派民兵組織に協力し、左翼ゲリラとその同調者に対するテロ攻撃を開始した。


右派民兵を率いていたのはフィデルとカルロスのカスターニョ兄弟である。兄弟の父親は裕福な牧場主だったが、ゲリラに誘拐され身代金を払えずに殺されてしまっていた。弟カルロスは民兵に入隊した理由を訊かれ、こう答えている。

「私が5歳の時、父がゲリラに殺された。私は父の墓前で泣き叫んでいた。私はこの時、父を殺した共産ゲリラへの復讐を誓った」

復讐心に燃える兄弟は国軍に入隊し、そこで軍事教練を受けた。当初は軍人としての正規の活動に留まっていた。だが、法的制約を受ける軍人でいたのでは満足に父親の仇を討つことは出来ない。兄弟は民兵組織を結成し、法に縛られない超法規的な対ゲリラ活動を展開する。

カルロスは成績優秀だったため、コロンビア政府の奨学金を得てイスラエルに留学することを得た。そこでカルロスはイスラエルの軍人から対ゲリラ戦の特殊訓練を受けた。コロンビアに帰国した時、カルロスはもはや田舎の朴訥な青年ではなくなっていた。復讐の鬼、冷酷な殺人マシーンに生まれ変わっていたのである。

兄弟は故郷のコルドバ州で「コルドバ・ウラバ農民自衛軍(ACCU)」を結成した。農民自衛軍とは言っているが、彼らはゲリラと関係があるとみなした農民を無差別に虐殺し、やがて地元からゲリラ勢力を一掃することに成功した。

1994年12月、兄フィデルがパナマ国境地帯でゲリラに暗殺されると、カルロスはゲリラに対する戦いを全国規模で拡大させるべくコロンビア全国の右派民兵組織に結集を呼び掛けた。

1997年4月、全国的な極右民兵組織「コロンビア統一自衛軍(AUC)」が結成される。AUCの誕生には背後で米軍やCIAも深く関与していたとされる。ゲリラ勢力の台頭を恐れたアメリカ政府の強力な後押しがあった。

右派民兵はパラミリタリー(準軍事組織)と呼ばれることが多い。これは正規軍のスペア的意味を持つ。政府軍が大っぴらには出来ない「汚い仕事」を請け負うためだ。ベトナム戦争でアメリカ軍は住民虐殺を韓国軍に委託した。それと同じようなものである。


ゲリラを壊滅させるには焦土作戦が最も効果的である。ゲリラが潜んでいると思われる地域の住民全員を強制的に他の場所へ隔離するか、あるいは全員を容疑者とみなして殺害してしまうのである。

日中戦争で日本軍は共産党八路軍のゲリラ戦に悩まされ、焦土作戦を展開して多くの罪なき中国人を虐殺した。神出鬼没のベトコン・ゲリラに悩まされた米軍もベトナムで虐殺を行なった。アフガニスタンに侵攻したソ連もイスラム戦士ムジャヒディンのゲリラ抵抗に苦しみアフガン住民を大量虐殺した。

ゲリラ戦の継続には何より地元住民の協力が欠かせない。住民が消え、補給路が断たれればゲリラは孤立する。AUCは住民の大量虐殺を繰り返した。


アメリカ政府は2001年、AUCをFARCやアルカイダと並ぶ「国際テロ組織」に指定した。しかしその一方でAUCを支援し、ゲリラ封じ込めに利用した。

要するにゲリラを叩くのも、彼らを助けているのも同じアメリカという皮肉な現実なのである。アメリカ人がコカインに手を出さなければゲリラは資金源を断たれ弱体化するだろう。AUCが農民虐殺をすることもない。コロンビアの内戦は終息し平和が訪れるのである。その意味でコロンビアは病んだアメリカ社会の犠牲者であるとも言える。


一向に減らないコカイン密輸に業を煮やしたアメリカ政府は1999年、コロンビア政府との間で「コロンビア計画」という麻薬撲滅作戦をスタートさせた。

これは2005年までの6年間に総額40億ドルを拠出してコロンビアのコカイン生産量を半減させるというものである。資金の大半はコロンビア軍の近代化やコカ駆除のための除草剤の購入費などに充てられた。

この計画は当初から「麻薬対策を口実としたコロンビアへの内政干渉」との批判が強かった。FARCはコロンビア計画に反対し、コロンビアに展開する米国系石油会社オクシデンタルが建設した石油パイプラインを爆破するなどのテロ行為を繰り返した。

コロンビアは地下資源に恵まれた国である。手つかずの石油や天然ガスの埋蔵量は相当なものだ。しかしそれらの資源の多くはゲリラ支配地で眠っている。ゲリラたちは「外国資本による植民地化」に反対してパイプラインの爆破や技術者の誘拐を行なうため、資源の開発は遅れている。貧困がゲリラを生み、テロ活動によって経済が停滞し貧困が助長されるという悪循環に陥っているわけだ。


コロンビア歴史物語 第9話

さて、二大麻薬カルテルの消滅後、アメリカに流れ込むコカインの量は減ったのだろうか?否、全然減っていないのである。なんで?


90年代半ばまでに麻薬カルテルが事実上壊滅すると、今度はその穴埋めをするかのように反政府ゲリラが麻薬ビジネスに直接手を出すようになったからである。

特にFARCは麻薬ビジネスに力を注いだ。95年当時、6千人ほどだった兵力は、わずか10年足らずの間に3倍の1万8千人に膨れ上がった。

潤沢な麻薬マネーで兵力を増強したFARCは支配地を広げ、90年代後半には日本の3倍強の面積を持つコロンビアの3分の1(日本と同じ)を支配下に置くようになった。

冷戦終結とソ連崩壊で、中南米の左翼ゲリラは求心力を失い自然消滅の道をたどった。エルサルバドルのように政府と和平に合意し合法化されるか、ぺルーのように武力で鎮圧されるかのどちらかだった。しかしコロンビアは違った。麻薬のおかげで、むしろ冷戦期より強くなってしまったのである。

もう革命より麻薬ビジネスが本業のようになってしまったようだ。彼らはもともとビジネスの才能があったのかもしれない。共産主義より資本主義の方が似合うのでは?と思ってしまう。

一方、第2の左翼ゲリラ勢力である民族解放軍(ELN)は断固として麻薬ビジネスへの参入を拒否し、ジリ貧に陥って兵士に食べさせるものもなくなり、栄養失調で兵士はろくに銃も持てないという有様になった。

「我々は麻薬を人類の災いの元とみる。こんなものに手を出すくらいなら貧乏でいた方がマシだ」

とELN最高幹部ガビーノ司令官は語っている。殊勝な心がけだが、理想と現実は別だ。理想だけでは飯を食っていけないのである。ELNはやはり世間知らずの学生集団なのだ。

そこでELNは身代金誘拐に力を入れるようになる。麻薬がダメで誘拐はOKという神経が理解できない。まあ、レーニンも「それが人民の幸福のためなら何をしても許される。たとえ殺人や強盗でも」と自己正当化しているので、ELNもそれに従っただけなのだろう。だから筆者(土屋)は共産主義が嫌いなのである。

麻薬カルテルの壊滅後もコロンビアのコカイン生産量が減少することはなく、カルテルの穴埋めとして左翼ゲリラが急速に勢力を拡大し始める。

コカイン取引は莫大な富をゲリラにもたらした。ゲリラ兵士は1人で3丁の銃を持っても余るほどになった。6連装のグレネード・ランチャーを装備したゲリラ兵は、旧式の装備しか持たない政府軍兵士を圧倒するようになった。

支配地域を広げたコロンビア革命軍(FARC)は、麻薬と並ぶもう一つのビジネスに精を出すようになる。セクエストロ(誘拐)である。


記録によればコロンビアで初めて誘拐事件が発生したのは1933年。この時は被害者の家族が5万ペソの身代金を払い人質は無事解放された。しかし被害者は30年後に再び誘拐されそうになり、その時犯人に殺されてしまった。

コロンビアで目立って誘拐が増え始めるのは60年代後半からである。裕福な資産家がゲリラのターゲットとなった。ゲリラに狙われる地主や富裕層は自衛のための私兵集団を組織した。これが後のパラミリタリー(準軍事組織)の発端となる。

コロンビアは日本の3倍もの面積を持つ広大な国である。しかも国土の大半は険しいアンデス山脈と奥深い密林で占められている。軍隊や警察の力の及ぶ範囲は限られている。ゲリラや無法者にとってはまたとない活躍の場が提供されているわけだ。

人質を誘拐しても被害者を長期間監禁し身代金交渉を有利に進めるには、それだけの場所と人員を確保しなければならない。コロンビアにはアンデスとジャングルという天然の要塞と、貧しさからゲリラに走る無数の若者や農民という好条件があまりにも整いすぎていた。

ゲリラは誘拐対象者を慎重に選んだ。銀行の個人情報をスパイや電子機器を使い盗み出し、個人の資産や富裕度を調べ対象者リストを作る。対象者を尾行し帰宅時間や帰宅ルートを綿密に調べ上げ犯行に及ぶ。

最も価値の高い資産家や大企業の重役は喉から手が出るほど欲しい人材だが、そうザラに転がっているものではない。そこでゲリラは手っ取り早く一度に無差別に大量に誘拐し、その中から金を取れそうな者を選び抜くという戦術に切り替える。

誘拐の方法は大胆だ。地方の幹線道路を封鎖し、通り掛かる車や通行人を検問し拉致する。軍や警察の検問を装うこともある。バスや飛行機を乗っ取り、乗客ごと連れ去るという手口もある。

だが何と言っても一番価値の高いのは外国人だ。人質の家族だけでなく、相手国の政府を脅して金を巻き上げることも出来る。また政府に対する圧力にもなる。ゲリラたちは外国人旅行者を狙った「ミラクル・フィッシング」という誘拐を繰り返すようになった。

コロンビアほど多くの外国人が誘拐され殺された国もないだろう。コロンビア政府の発表によれば、コロンビアでは1996年から2004年までの8年間だけで324人の外国人が誘拐されている。


ゲリラに誘拐されると、たいてい人里離れた山の中のアジトへ連れて行かれる。そこで身元調査が行なわれ、人質の背後に金の匂いがある場合はそのまま監禁。ない場合は解放するか口封じのため処分となる。

誘拐された被害者はアンデスやジャングルのゲリラのキャンプを転々と移動しながら、長期に及ぶ監禁生活に耐えなければならない。数ヵ月で解放されるのはまだ運のいい方で、解放までに数年を要する場合も珍しくない。

人質にとって敵はゲリラだけではない。劣悪な環境で病気にかかり命を落とす人質も少なくない。ジャングルにはマラリアなどの病原菌がウヨウヨし、毒蛇や毒虫、猛獣もいる。たとえ逃げ出したところで道に迷い獣の餌食になるか餓死するのがオチだ。ゲリラ兵は政府軍が人質救出作戦を始めたら即座に人質を射殺するよう上官から命じられている。政府軍もまた人質にとっては敵なのである。


それでも命が助かるならまだマシだ。何年も自由を奪われた挙げ句、殺されてしまう人質もいる。2002年4月に誘拐されたバジェ・デル・カウカ州の州議会議員12人のうち11人は、5年後の2007年6月に殺害されている。

とは言えゲリラにとって人質は大事な「商品」である。殺すことは滅多にない。コロンビアの非政府組織(NGO)「自由国家財団」によると、人質が殺される確率は全体の1%だという。


政府は多発する誘拐に対処すべく「誘拐対策法」を制定した。被害者に身代金の支払いを禁ずる法律である。だが、政府にそれだけの解決能力がなかったことから有名無実化した。

ゲリラが麻薬と誘拐で勢い付く中、政府も麻薬との腐れ縁を断ち切れずにいた。1994年に就任した自由党のエルネスト・サンペール大統領はカリ・カルテルから選挙資金として600万ドルを受け取っていたことが発覚し大問題に発展した。

アメリカ政府は激怒し、サンペール大統領へのビザ発給を停止した。コロンビア議会はサンペール弾劾の構えを見せた。平和的な政権交替を繰り返してきたコロンビアで大統領が任期途中に退任に追い込まれることなどかつてないことである。

だが結局、この問題はうやむやにされてしまった。議会の懲罰委員会はサンペールに対して簡単な聴取を行なった後、証拠不十分で不問としたのである。


1996年3月、アメリカ政府は「麻薬取り締まりに非協力的な国」にコロンビアを挙げた。これはサンペールに対する事実上の退任勧告だった。

しかしサンペールは辞めなかった。結局、彼は何食わぬ顔で居座り、4年の任期を全うすることになる。

麻薬疑惑で人気のないサンペールは奇策に出た。1997年6月、サンペールは軍に命じて南部カケタ県から軍部隊を撤退させる。FARCに囚われている捕虜の解放を実現するためだ。

FARCは57名の捕虜の釈放と引き替えに軍の撤退と解放の模様をテレビ中継することを要求した。実はこの時、捕虜解放と同時に軍が捕虜を殺害し、すべての責任をゲリラになすりつける計画があったという。

「ゲリラは人質を解放するという約束を破って人質を殺した。なんてひどい連中なんだ!」

ということを世間に対してアピールし、ゲリラの評判を貶める狙いがあったのだろう。

このもくろみを阻止するため、FARCはテレビ中継を要求したのだ。まさか生中継のカメラの前で人質を殺すことは出来ない。

結局、人質は無事解放されたが、この時、最後までゲリラへの譲歩を拒否した軍部と政府の間に亀裂が生じる。


コロンビア歴史物語 第8話

1985年11月6日、ボゴタの最高裁判所兼法務省ビル(正義宮殿)にM-19のメンバー35名が侵入し、市民や最高裁長官と判事12人、国会議員など500人以上を人質に取って立てこもった。

M-19はベタンクール大統領との「和平のための直接交渉」を要求した。だが、最高裁を包囲した政府軍部隊はすぐさま攻撃を開始し、戦車まで使って強行突入した。

人質のアルフォンソ・レイエス最高裁長官による必死の攻撃中止要請にも関わらず、政府軍は28時間にもわたる激しい銃撃戦の末に最高裁に突入し、ゲリラ全員を射殺して強引に事件を解決した。

5年前のドミニカ大使館占拠事件で犯人をキューバに逃がした政府は、この時とばかり意趣返しをした。ゲリラは全滅したが、判事11人と市民60人を含む人質115人も巻き添えで犠牲となった。


ところが、この事件、後に分かったことだが、すべて政府によって仕組まれた「茶番劇」だったのである。

事件を起こしたM-19の最高幹部カルロス・ピサロは、エスコバルから最高裁長官の暗殺と麻薬関連書類の焼却を依頼され、230万ドルで引き受けた。

しかしエスコバルは裏で軍とも取り引きし、自分の身柄をアメリカに引き渡そうとしている最高裁長官を人質もろとも殺害し、エスコバルのこれまでの罪状を記した書類も最高裁と一緒に燃やしてしまったのだ。

これはゲリラを潰したい政府の思惑とも一致する。この事件で幹部のほとんどを失ったM-19は急速に弱体化し、5年後には政府との和平に応じて武装解除してしまった。


この年はコロンビアにとっては厄年で、11月13日にはアンデス山中のネバド・デル・ルイス火山(標高5399メートル)が大爆発し、一瞬にして2万3千人が死亡した。

この時、首まで泥水に浸かりながら救出を待ち続け、とうとう間に合わずに死んでいった13歳の少女オマイラ・サンチェスの映像を覚えている人もいるだろう。世界中が涙した悲劇だ。

実はこの時、アメリカ政府は救助隊の派遣を拒否していた。コロンビア政府が麻薬取り締まりに消極的だから、という理由だ。

踏んだり蹴ったり、泣き面に蜂とはこのことだろう。いつの世も一番泣きを見るのは無力な庶民だ。筆者(土屋)は確信する。神などいない。


1986年に就任したビルヒリオ・バルコ大統領は、麻薬マフィアへの取り締まりを強めていく。これに対抗してエスコバル率いるメデジン・カルテルは政府要人や警察・司法関係者に対するテロを繰り返す。

カルテルのメンバーを逮捕した警官は家族もろとも殺害された。メンバーに有罪を宣告した判事も同じだった。カルテルに殺された裁判官だけで80人にも上るというから凄まじい。

カルテルの攻撃対象は政府関係者に留まらず、カルテルに批判的な記事を書いたエル・エスペクタドール新聞の社屋も爆破された。ヤクザが言論弾圧をするのだから凄まじすぎる。

1989年8月18日、バルコ大統領はメデジン・カルテルに対して「全面戦争」を宣言。軍・警察の治安部隊を総動員してカルテルの壊滅を図る。カルテルも政府に対し宣戦布告し、コロンビアはまさに「麻薬戦争」の真っ只中に突入していくのである。


1980年代後半から90年代前半にかけて、コロンビアでは「麻薬カルテル戦争」による暴力の嵐が吹き荒れることになる。

バルコ大統領の宣戦布告にエスコバルは無差別テロで応えた。1989年12月6日、ボゴタの国家保安局(DAS)本部ビルに推定500キロのダイナマイトを積んだトラックが突入。大爆発を起こし、死者62人、重軽傷者600人以上を出した。

DASは捕らえていたエスコバルの腹心、ロドリゲス・ガチャの息子を釈放し、尾行をつけた。果たしてガチャの息子はスクレ州コベナスの親父の隠れ家に向かった。チャンスだ。ただちに対テロ特殊部隊が急襲。ガチャと息子、その家族ら15人を殺害することで報復した。

カルテルの反撃もまた凄まじかった。1990年の大統領選。エスコバルは「反麻薬」の姿勢を打ち出す候補者を次々に葬っていった。選挙戦期間中に4人の候補者が暗殺されたというのだから凄まじい。だが、当選したのは対麻薬強硬派の自由党セサル・ガビリアだった。

ガビリア大統領はアメリカ政府の援助を得て麻薬カルテルに対する包囲網を狭めていった。この時、アメリカの大統領はブッシュだ。あのバカ息子の親父である。ブッシュ政権は89年にパナマに侵攻、麻薬の売人ノリエガ将軍を捕らえたのと同じようにコロンビアに米軍を派遣し、エスコバルとその仲間たちを捕らえてメデジン・カルテルを壊滅させようと意気込んでいた。

しかしコロンビアは主権国家である。ブッシュ政権がパナマでやったように自国を無差別爆撃されたんじゃたまらない。アメリカが本気になる前に片付けてしまうしかなかった。

この頃になると、さすがのエスコバルも落ち目になっていた。政府の絶え間ない追及に加え、ライバルの組織であるカリ・カルテルが台頭し、縄張り争いが激化し、エスコバル自身も常に身辺に警護を置いておかないと命も危うい状況になっていたのである。

絶頂期のエスコバルは麻薬の稼ぎを惜し気もなく貧乏人に分け与え、気前よく貧困層向けの学校や病院、住宅、図書館、さらにはサッカー・スタジアムまで建設し、慈善事業のようなことをやっていた。

政府に見捨てられた人々に、政府に代わって救いの手を差し伸べていたのである。ヤクザが公共事業をやったのだ。ゆえにエスコバルは敵も多かったが、彼を慕う人間も多かった。「現代のロビン・フッド」などと呼ばれていた。貧乏人にとってエスコバルはまさに「神」だったのである。


そんなコロンビアの麻薬帝国の帝王にも陰りが見えてきた。政府やライバルとの戦いに疲れたエスコバルは1991年6月、自分の身柄をアメリカ当局に引き渡さないことを条件に政府に投降した。

彼の故郷エンビガドにはカテドラルという豪華な「刑務所」が建てられた。プール付きの大邸宅である。エスコバルはここで5年間の「服役」を義務付けられるに留まった。電話もファックスも使い放題。外出も自由。ショッピングやサッカー観戦もOK。まさに至れり尽くせりだ。刑務所の看守もみんな買収されていたのだから当然である。

ここでエスコバルは悠々自適な暮らしを送りながら、外部の仲間と連絡を取り、相変わらずせっせとアメリカにコカインを密輸した。無論、こんなことを世界の警察官アメリカが許しておくはずがない。

CIA(米中央情報局)とDEA(麻薬取締局)による極秘の作戦が開始された。エスコバルを拉致してアメリカに連行しようというものだ。が、この情報はただちにエスコバルに漏れてしまった。


1992年7月22日、エスコバルは自宅兼刑務所から脱獄した。自分の金で建てた刑務所から脱獄したなんてもう漫画である。エスコバルは正門から堂々と歩いて出ていったが、誰も追いかける者はいなかったという。

その後の1年半はアメリカ当局の威信をかけた追跡とエスコバルの必死の抵抗だ。エスコバルは「メデジンの反逆者」というテロ組織を作り、自分をアメリカに売り渡そうとするコロンビア政府にテロで対抗した。

一方、エスコバルに家族を殺された者たちも黙ってはいなかった。彼らは「ロス・ペペス」という暗殺団を結成し、エスコバルの手下を次々に血祭りに上げていった。ロス・ペペスとは「パブロ・エスコバルに迫害された者たち」の意味のスペイン語の頭文字を取った名前である。

ロス・ペペスは殺害現場に必ず証拠を残していったという。コロンビアのアンティオキア地方には、

「愛情は10倍に、憎悪は100倍にして返せ」

という諺がある。彼らは恨みを忘れず徹底的に報復する主義なのだ。


世界の超大国アメリカ相手に暴れまくったエスコバルにも、とうとう年貢の納め時がやって来た。1993年12月2日のことである。

この日、エスコバルはメデジン市内の隠れ家に潜伏していた。息子に掛けた2分半の電話が命取りになった。コロンビア治安当局の傍受班が電話の逆探知に成功したのである。

ただちにコロンビア軍の特殊部隊がアジトに突入した。エスコバルは銃撃戦の末に蜂の巣にされて殺された。

エスコバルの死によってメデジン・カルテルは大打撃を受け、その後、幹部のほとんどが逮捕あるいは殺害されて壊滅状態に追い込まれた。エスコバルの家族は現在、アルゼンチンで暮らしているという。

コロンビア政府の徹底的な掃討作戦で第2の麻薬カルテル「カリ・カルテル」の幹部ロドリゲス兄弟も95年6月に逮捕され、カルテルは壊滅。麻薬戦争は政府側の全面勝利で終わった。


コロンビア歴史物語 第7話

1970年代後半、アメリカのコカイン・ブームでコロンビアがコカインの一大生産地帯と化していく中、コロンビア政府と対立し内戦を続ける反政府ゲリラにとって絶好のチャンスが訪れた。

コロンビア最大の左翼ゲリラFARCも、1980年代初頭までは勢力1千人ほどで、コロンビア南部のジャングルや山間部で細々とゲリラ活動を続けているに過ぎなかった。とても政権を取れるような勢力ではなかったのである。

そんなへなちょこゲリラにマフィアからうまい話が持ち込まれた。

「なあ、お前たちも俺たちと一緒にビジネスをしねえか?」

麻薬ビジネスに参入しないか、というのである。麻薬を売って稼げば多額の資金が手に入る。武器弾薬を買えるし、兵士たちに十分な給料も払える。だがビジネスに関してはゲリラはド素人だ。下手に手を出せば「武家の商法」に終わる可能性がある。

「なーに、その心配はいらねえ。実際のビジネスは俺たちがやる。お前らは俺たちの仕事を手伝ってくれるだけでいいんだ」

つまり、麻薬マフィアが支配するコカ畑やコカイン精製工場、密輸ルートを警備してくれというのだ。そうすればマフィアがゲリラに「警護料」を支払う、というのである。用心棒になってくれというわけだ。


戦争というのはとにかく金がかかる。それはゲリラも同じだ。国がやる戦争ならば国債を発行するなり増税するなりいくらでも手段はあるが、国ではないゲリラが戦争を続けるとなると自分たちで稼がねばならない。ビンラディンのような大富豪なんてそんなにいるものではない。

そうなると軍資金を確保する手段は限られてくる。金を持っていそうな人間を誘拐してきて身代金をふんだくるか、麻薬を作って売って稼ぐか、である。

誘拐するにしても金を持ってる人間はどこにでも転がっているものではない。危険も付きまとう。人質を確保しておくだけの場所と人員が必要だ。

となれば麻薬しかない。麻薬を作る人間ならいくらでもいるのだ。貧しい農民なら安い賃金でも喜んで働く。しかも海を越えたアメリカにはうなるほど金があって、麻薬を買ってくれる人間が沢山いるのだ。


当初、ゲリラはこの申し出を断った。金は欲しいが、我々は共産主義者である。人民の味方である。尾羽打ち枯らしても性根は腐っておらぬ。麻薬に手を出すなど以ての外だ。早々にお引き取り願いたい、と突っぱねたのである。

この頃はまだ共産国ソ連も健在だったし、共産主義の思想も色あせていなかった。キューバのカストロ師匠も元気一杯だったし、ニカラグアでもサンディニスタの革命政府が出来たばかりだ。ゲリラたちの士気も高く、麻薬に手を出すほど落ちぶれちゃいねえぜ!という感じだったのだろう。


1980年2月27日、ボゴタのドミニカ共和国の大使館ではドミニカ独立記念日の祝賀パーティーが開かれていた。

そこへ武装した15名の男女が突如乱入してきた。銃声が響く。一瞬にしてパーティー会場は凍りついた。

左翼ゲリラM-19のメンバーがドミニカ大使館を占拠したのである。アメリカやエジプトなど各国の大使ら52人が人質に取られた。

M-19は政治犯の釈放を要求した。ペルーの日本大使公邸人質事件と似ている。あの事件を引き起こした「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」はM-19の弟分みたいなゲリラ組織である。かつてはM-19と共同でゲリラ作戦を行ない、勇名を馳せていた。MRTAは兄貴の真似をしたのだ。

実は当初、M-19は日本大使館を狙っていたとされる。テロに弱腰な日本政府なら脅せると考えたのだろう。だが当時の日本大使館はビルの最上階にあり、長期の籠城には不向きと判断したらしい。

トゥルバイ大統領は当初、犯人側の要求を断固拒否した。しかし国際人権団体アムネスティによりコロンビア政府が行なっている人権侵害の数々が暴かれてしまい、刑務所で政治犯がひどい拷問や虐待を受けていることが分かると、政府の立場は苦しくなった。

事件発生から61日後の4月28日、犯人グループは政治犯の釈放と身代金2千万ドルを勝ち取り、人質を連れてキューバへ出国した。ハバナの空港で彼らは英雄として迎えられた。


コロンビア政府は面目丸つぶれである。トゥルバイは戒厳令を布告し反体制活動家を徹底的に弾圧した。多くの活動家が秘密警察により拉致され、そのまま失踪した。

ドミニカ大使館事件で株を下げたトゥルバイは、思い余って奇策に出る。ゲリラに対し投降すれば一切罪を問わないと宣言したのである。

無論、ゲリラが応じるわけがない。のこのこと出ていけば殺されてしまうに決まっている。そのくらいのことはラ・ビオレンシアの頃から平気でやってきた政府だ。


1982年に就任したベリサリオ・ベタンクール大統領は、麻薬マフィアの跳梁に手を焼いた。そこで、トゥルバイ以上の奇策に出た。

なんと、ゲリラに和平交渉を呼び掛けたのである。しかも、

「政府と一緒に麻薬マフィアと戦ってくれないか?」

と言い出したのだ。軍隊や警察は腐敗していて使い物にならないので、反政府ゲリラの力を借りて麻薬マフィアを叩き潰そうとしたのだ。

ところがゲリラは和平に応じたのである。最大のゲリラFARCは84年、政府との停戦に応じ、合法政党である「愛国同盟(UP)」を創設した。そして国会に議員を送り込んだ。コロンビア史上初めて、底辺の人民が国家権力を手にしたのだ。

しかしマフィアの方が一枚も二枚も上手だった。政府の情報はすべてマフィアに筒抜けだった。議員も買収されていたのである。

先回りしたマフィアはゲリラと手を結んだ。FARCはマフィアの資金源を守ることで多額の軍資金を手に入れ、政府軍よりも優れた高性能の武器を買いそろえることが出来た。

こうしてFARCは急速に勢力を拡大させ始めた。いったん和平に参加したのになぜ武装闘争を継続する必要があったのだろうか?


それは結局、政府が約束を破ったからである。FARCの合法政党UPの国会議員は次々と何者かに暗殺されていった。85年からの5年間でなんと3千人も議員や関係者が暗殺されたのだ。しかし暗殺者が逮捕されることは一度もなかった。94年にはUPは党員不足で政党資格を剥奪されてしまう。

思うに政府は和平をチラつかせてゲリラを油断させておき、丸腰で出てきたところを不意討ちにして全滅させる気だったのではないか?


86年ごろにはすでにFARCは武装闘争に復帰した。多額の麻薬マネーで潤った彼らはもう昔の弱いゲリラではなくなっていた。ゲリラもやはり麻薬マネーの魅力には打ち勝てなかったと見える。背に腹は替えられぬ、ということか。

この頃になると、アメリカ政府も自国の麻薬汚染に悲鳴を上げるようになっていた。いくら国内で取り締まりを強化しても、コロンビアからどんどんコカインが流れ込んでくるのではたまったものではない。

最盛期のエスコバルはコカイン取引で年間250億ドルも稼ぎ、世界で7番目の金持ちとしてフォーブス誌にも取り上げられたことがある。

エスコバルは「プラタ・オ・プロモ(賄賂か暗殺か)」を合言葉に国会議員や政治家を徹底的に買収し、応じない者は容赦なく暗殺した。政府も警察もみんなエスコバルに買収されていた。もう誰も彼に逆らえなかった。


1980年代前半、中南米諸国を金融危機が襲った。外資導入で経済成長を図ってきたこれらの国々は、70年代の二度にわたる石油ショックで景気が停滞すると、たちまち先進国から借りた金を返せなくなり、次々と国家財政が破綻してしまったのである。


コロンビアも例外ではなかった。エスコバルは政府に対し、

「俺が自分の金で国家財政を建て替えてやるから、麻薬取引に目をつぶれ」

と持ち掛けた。政府は慎重な協議の末、この申し出を断った。日本でも兵庫県は税収の半分以上を山口組に頼っている。国家とヤクザは協力関係にあるのだ。だからヤクザはいなくならないのである。

アメリカ政府はコロンビア政府と「二国間犯罪人引き渡し協定」を結び、麻薬の元締エスコバルを逮捕しアメリカに身柄を引き渡すよう求めた。

だが、この情報も筒抜けだった。先手を打ったエスコバルは、とんでもない事件を起こすのである。


コロンビア歴史物語 第6話

さて、コロンビアと言えば麻薬だ。コロンビアが麻薬と切っても切れない関係になっていくのが1970年代である。

アメリカでは60年代後半から公民権運動で自由化・世俗化が進んだことと、ベトナム戦争の泥沼化と敗北で社会はダメージを受け、世相は享楽的・頽廃的になっていった。

世界の超大国アメリカがベトナムなんてアジアの小国に負けたのである。そのことがどれほどアメリカ人のプライドを傷つけたか想像に余りある。

戦争に負けた後は麻薬が流行りやすい。日本も戦後は覚せい剤が大流行し、ヒロポン中毒者が激増した。アメリカでも70年代後半からコカイン中毒者が急増する。

アメリカの若者はもともとマリファナが大好きだった。マリファナの一大産地はメキシコだった。だが、メキシコでの取り締まりが厳しくなると、その産地はコロンビアのカリブ海沿岸に移った。

カリブ海に突き出たコロンビアのグアヒラ半島では、貧しい農民たちがこぞってマリンベラ(マリファナ)を作った。ジャーナリストの故・竹中労氏はコロンビアを取材した際、グアヒラ半島ではひとつの山全体がマリファナ畑だったと語っている。


マリファナ産地がコロンビアに移ると、たちまち麻薬産業がコロンビアの重要な産業のひとつとなっていった。マフィオーソ(マフィア)が麻薬取引を仕切り、警察は麻薬業者から袖の下をもらって腐敗し機能しなくなった。

コロンビアで麻薬生産が急増した背景には、70年代からアジアやアフリカの新興諸国でコーヒー生産が始まったこともある。

これらの国々でコーヒー生産が手っ取り早い外貨稼ぎの手段としてもてはやされるようになると、当然、コーヒーの国際価格は低下した。それまではコーヒー栽培でもそこそこ食っていけたコロンビアの農家は、もはやコーヒーでは食っていけなくなり、麻薬の生産に手を出すようになったのである。

そこにアメリカの麻薬ブームだ。これで麻薬の生産量が増えないわけがない。悪いことは重なるものである。

1978年に就任した自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領は、腐敗した警察に代わって軍隊を投入し、グアヒラ半島でのマリファナ栽培を根絶しようとした。


だがその頃、すでにアメリカではマリファナ・ブームが終わり、コカイン・ブームの時代が到来していた。

アメリカ人はマリファナよりも刺激の強いコカインに乗り換えたのである。マリファナは抑制剤で気分を落ち着かせる効果があるが、コカインは興奮剤であり強烈な幻覚作用がある。

日本では大麻が人気だが、コカインはあまり流行らなかった。これは日本人が抑制剤であるマリファナが好きで、興奮剤のコカインは好きではなかったからだとも言われている。


アメリカで爆発的なコカイン・ブームが始まると、コロンビアのマフィオーソもマリファナからコカインに切り替えた。

コカインは南米アンデス山脈に自生するコカの木から作られる。コカの葉を集めて水と石灰とセメントに浸して樹液を搾り取り、それを乾燥させたのが「コカイン・ベース」と言ってコカインの原料となる。

コロンビア南部の貧しい農村では、農民たちがせっせとコカを育て、コカイン・ベースを作っている。どの農家の軒先でも農民がコカイン・ベースを火に当てて乾かすのに余念がない。乾いていないと質が悪く高く売れないのである。

コカイン業者が農民からコカイン・ベースを買い取りに来る。スプーンですくって火であぶってみてパチパチと爆ぜてしまうのは質が悪い。グツグツと煮えるのが上質である。

乾季は収穫量が少ないので業者の足も遠のく。コカイン・ベースの方が通貨より価値が高いので、住民は皆、コカイン・ベースを通貨の代わりに使う。コカイン・ベース何グラムでコーヒー一杯、という感じである。

これをさらに加工してコカインとなる。上質のコカインは純白の粉末で、これをストローで鼻から吸引して使用する。

コカの葉それ自体に毒性はない。昔からアンデスの高地で暮らすインディオが高山病予防や疲れを癒すために使ってきた。

アンデスへ行くと旅行者はコカ茶を振る舞われる。飲むと高山病に効く。標高の高いアンデスは酸素が薄いので慣れないと頭が重くなり体がだるくなってくるのだ。

コカの葉をそのまま口に入れてガムのように噛むと頭痛や歯痛が治まるという。ボリビアではコカは合法化されていて、町の市場で袋詰めにされて売られている。

要するにコカそのものに麻薬性はない。危険なのはコカインである。


コカインを常用するとどうなるのか。一言で言ってしまうと、この世に自分より強い奴はいない、と思い込むようになってしまう。

もう怖いものなんてないんだ。俺が一番強いんだ。そんな気持ちになってしまう。何日も何も食べずに眠らなくても全然平気だ。

そのうち人を殺したくなってくる。誰でもいいから殺したい。無差別に人を襲って殺してしまう。そんな恐ろしい麻薬なのである。

アメリカでは理由のない無差別殺人事件が多いが、犯人がコカイン中毒者である場合が多い。

ちなみにアメリカのコカ・コーラは昔、コカインを入れていた。だからコーラを飲み過ぎるとコカイン中毒になってしまった。今はコカインの代わりにカフェインを入れている。


記録によると、コロンビアで初めてコカイン生産が始まったのは1969年。だからそんなに昔のことではない。

コロンビアでは先住民パエス族が細々とコカを育てているだけだった。マフィオーソは当初、彼らにコカを作らせていたが、そのうち需要に供給が追い付かなくなった。

そこで彼らはペルーやボリビアで生産されるコカの葉をコロンビアに運び、コロンビアでコカインに精製して、アメリカに密輸するという大規模なコカイン・ルートを築き上げた。

コカは乾燥した地域を好む。湿度の高いコロンビア産のコカインは質が悪い。最高級は乾燥地帯ボリビア産である。

だが安物だけに手に入りやすい。そんなわけでコロンビア産コカインがアメリカで大流行したのである。


この時期にコカイン取引で急速に台頭した男がいる。世界最大の麻薬密売組織「メデジン・カルテル」の最高幹部パブロ・エスコバルである。

エスコバルは花の都メデジンで生まれた。心の優しい親思いの素直な少年だったという。メデジンはコロンビア西部の標高1500メートルの高原にある町で、17世紀の初めにユダヤ人が作ったという。

やがてエスコバルは自動車窃盗を繰り返し町の悪ガキを集めてギャングを作る。自分に従う者にはとことん尽くすが、いったん敵に回るとどこまでも容赦なく追及し徹底的にぶちのめす主義の男だった。

最初にエスコバルが麻薬で捕まったのは1976年。18キロのコカインを所持していて逮捕された。彼を逮捕した警官は後に暗殺されている。

その頃からエスコバルはメデジン・カルテルを率いてアメリカのコカイン市場に殴り込みをかける。フロリダでは対立するアメリカン・マフィアを滅ぼし、全米のコカイン市場を独占してしまった。

ここからコロンビアが天下に悪名を響かせる時代がやってくる。コロンビア国内の事情に麻薬が絡んでくる。


コロンビア歴史物語 第5話

10年に及んだラ・ビオレンシアの終結後もコロンビアに平和が訪れることはなかった。

1958年5月、国民戦線協定に基づく選挙の結果、自由党のアルベルト・ジェラス・カマルゴが大統領に選出された。

しかし国民戦線に反対する自由党左派や共産党は武装闘争を継続し、恩赦にも関わらず武装解除を拒否した自由党系農民たちは山間部に「自治共和国」を形成して中央政府に対抗した。

1959年1月、キューバでカストロの率いる革命が成功すると、共産党の指導の下、農民たちはゲリラ闘争を始める。

同年9月、アメリカのアイゼンハワー大統領はコロンビアに特別調査団を派遣し、コロンビアの共産化を阻止すべく内政干渉を強めていく。

ジェラス政権は1961年、「進歩のための同盟」を発効し、10年間に200億ドルを投じて国民所得を2.5%引き上げ、生活水準を上昇させて貧困を減らす、という計画を実行に移した。

ここで農地改革も行なわれたが、地主のサボタージュによりほとんど実効を上げることはなく、有名無実化した。

またアメリカに追随する形で社会主義国となったキューバと断交するなど、親米反共路線を強め、米国の援助で国内の共産主義勢力を徹底的に弾圧した。

一方で共産ゲリラは着実に勢力を伸ばし、コロンビア中部のビオタ、スマパスなどの高原に「解放区」を作り、キューバ型の革命を目指した。


1962年2月、アメリカ陸軍のウイリアム・ヤーバラ将軍がコロンビアを訪れ、コロンビア国軍のアルベルト・ルイス将軍とともに「共産主義に対抗するための戦略」として「ラザロ計画」を策定した。

この計画は、共産ゲリラの脅威に対抗するため、市民を訓練して民兵を組織し、ゲリラと戦わせるというもので、1968年に当時のバレンシア大統領によって合法化された。

アメリカの援助で近代化されたコロンビア政府軍は、共産ゲリラの解放区を攻撃し、次々に陥落させていった。農民たちは土地を追われ、さらに奥地の人の住んでいない地域に逃れた。

政府軍は無差別爆撃と農民虐殺を繰り返しながらゲリラを追い詰めた。住む所を失った農民たちは南部のメタ、カケタ州のジャングルに逃げ込み、そこを開拓して「独立共和国」を作った。

しかしそれらの土地も政府軍に奪われ、農民たちが切り開いた土地は大地主の手に渡った。


1964年5月27日、政府軍の弾圧に追われた農民たちは、もはや残された手段は政府に対し全面戦争を仕掛けるしかないと判断。ここに40年以上に及ぶ内戦を戦うことになる反政府勢力「コロンビア革命軍(FARC)」が結成されたのである。

筆者(土屋)は共産主義者ではないし、テロには反対の立場だが、コロンビアの歴史を見ていくと反政府ゲリラに少し共感を覚えてしまうのは否めない。

だって政府があまりにも横暴なんだもの。地主も金持ちも自分たちの欲しかないし、政府は農民の命なんか虫けら程度にしか考えていないでしょう。

日本が戦後平和になったのは農地改革を徹底的にやったからだ。自分の土地を手にした農民は保守化して共産革命なんぞ見向きもしない。日本では共産主義者は浮いた存在となり、連合赤軍のような一部の過激派が暴れても国民はまったく支持しなかった。

同じことはボリビアでカストロの盟友エルネスト・チェ・ゲバラがゲリラ闘争をやっても地元農民の支持を得られず孤立し最後は捕まって銃殺されてしまったのを見れば分かる。ボリビアは1952年の革命で一応、農地改革をしていたので、農民は保守化してゲリラについていかなかったのだ。

コロンビアでなぜゲリラがこれほど支持され、農民たちがゲリラ闘争へ走ったのか。そのことを一度でも政府は考えたことがあるのだろうか。

FARCが結成されたのとほぼ同時期、キューバで革命思想の勉強と軍事教練を受けて帰ってきた学生たちが「民族解放軍(ELN)」を結成した。結成当初のメンバーはわずか18人だったという。

このFARCとELNがコロンビアの二大ゲリラとなり、今日まで武装闘争を続けていくことになる。

と言ってもコロンビアのゲリラが政府と対等に渡り合える存在になるのはもっと後年の話。この頃は弱小の反政府武装集団に過ぎず、ELNなんかは政府軍に徹底的に叩かれて何度も壊滅状態に追い込まれている。

政府の弾圧と資金不足に困り果てたゲリラたちは、軍資金調達の手段として金持ちを狙った誘拐事件を繰り返すようになる。コロンビアで誘拐が増え始めるのは1960年代後半からだ。

この頃は日本でも東大などで学園紛争が盛んな時期だった。フランスでは学生運動でシャルル・ド・ゴール大統領が辞任に追い込まれ、アメリカでも公民権運動やベトナム反戦運動が盛んだった。

それはコロンビアも同じだった。コロンビアでもキューバ革命の影響を受けた学生たちが学生運動に熱をあげた。ボゴタのサンタンデール工科大学のキャンパスの壁にはチェ・ゲバラの巨大な似顔絵が描かれ、大学構内の広場は「チェ広場」と改名された。

ただ、民主的な先進国と違ったのは当局が学生を物理的に抹殺してしまったことだ。政府は戒厳令を布告して学生運動を徹底弾圧し、学生活動家は秘密警察に連れ去られ二度と戻ってくることはなかった。

平和的なデモをやっただけで消されてしまうのではたまったもんじゃない。学生たちは合法闘争を諦め、多くの活動家がゲリラへ走った。

ゲリラに参加したのは学生だけではない。カトリック教会の神父までもが銃を取りゲリラに入った。

「解放の神学」を掲げてゲリラ闘争に参加したカミロ・トーレス神父がその代表的存在だ。トーレスは教会から破門されるが、この状況を打破するには武装闘争しかないと確信していた。


そりゃそうだ。いくら神に祈ったところで神はパン一切れだってくれやしない。どんなに信仰心が強くても神は絶対に無力な人間を助けてはくれないのである。為政者は信仰の力によって民衆の不満を抑えつけているだけだ。

それに気付いてしまったのだから聖職者なんてやってられない。トーレス神父は機関銃を握りゲリラ戦線に参戦した。しかし引き金を引けない。神に仕える身で人は殺せない。やはりトーレスは所詮、世間知らずのお坊ちゃんだったのだろう。

ELNに参加したトーレス神父は1966年2月15日、サンタンデル州で政府軍パトロール隊の待ち伏せ攻撃の際、戦死した。彼自身は一発も撃たず誰一人殺していない。彼にとっては生まれて初めての戦闘であった。


結局、トーレスは革命家になれなかった。だが彼の死は世界中に衝撃と勇気を与えた。以後、トーレスに続く若者や聖職者が後を絶たなくなるのである。こうしてコロンビアの内戦は新たな局面を迎えていく。


1970年の大統領選には亡命先のスペインから帰国したロハス将軍が立候補し、国民戦線体制の政権たらい回しに飽きた国民の支持を集めた。

ところが結果は保守党のミサエル・パストラーナ・ボレロにわずか5万票の僅差で敗れる。ロハス陣営は不正選挙だとして抗議行動を起こした。

この時、保守党陣営はロハス当選を阻止すべく、なりふり構わぬ不正工作を行なった。ある村では、有権者数よりもはるかに多いパストラーナ票が見つかったという。とにかく投票箱にガンガン投票用紙を詰め込んだのだ。

抗議行動は全国に拡大した。さらに軍内部のロハス派によるクーデター計画も発覚する。政府は非常事態宣言を発令して強行突破を図った。

ロハスはクーデター関与を疑われ自宅軟禁となる。結局、ロハスは5年後に病死。


この不正選挙に対する抗議運動をきっかけに「4月19日運動(M-19)」という左翼ゲリラが結成された。4月19日は不正選挙の行なわれた日である。

M-19は共産主義者から民族主義者まで右から左へいろんな思想を持った連中の「寄せ集め」だった。

それでもM-19は元気なやんちゃ坊主みたいなゲリラだった。FARCが農民ゲリラで、ELNが学生インテリ集団だったのに対し、寄せ集めに過ぎないだけにM-19はイデオロギーも何もなく「とにかく暴れたい」という連中だけが集まっていた。


1974年、国民戦線体制は終了。コロンビアは普通選挙による民主主義国家となったが、自由・保守の二大政党制の壁は分厚く、寡頭体制には何の影響もなかった。


コロンビア歴史物語 第4話

1928年12月、北部のシエナガにある米国ユナイテッド・フルーツ社のバナナ農園で労働者が大規模なストライキを行なった。これはコロンビア史上最大の規模に発展し、労働者らは待遇改善を要求して町の広場を占拠した。

このストを自由党左派と社会党、共産党も支援したことに恐れをなした保守党政権は、軍による武力弾圧を決定。シエナガの広場に集まったデモ隊に一斉射撃を浴びせた。

死者数は60人から3000人とも言われているが、詳細は不明である。この時、政府の対応を国会で厳しく糾弾した人物がいる。弁護士出身のホルヘ・エリエセル・ガイタン(1903~1948)である。

自由党議員のガイタンはカリスマ的政治家だった。彼はほとんど飲まず食べず寝ずに仕事に没頭し、よりよい生活を求めるコロンビア国民のために全身全霊闘った。彼の演説はイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニをモデルにしたと言われる。


スト弾圧で評価を下げた保守党は1930年の選挙で大敗し、エンリケ・オラヤ・エレーラの自由党政権が誕生した。

オラヤ・エレーラ政権は労働者保護政策を採り、一定の改革には成功した。1932年にはアマゾン地方のレティシアの領有を巡る隣国ペルーとの戦争に勝ち、パナマ問題以来の外交的雪辱を晴らすことにも成功した。

その後、自由党政権は1946年まで16年間続くことになる。自由党政権下で土地改革も行なわれた。この間、ガイタンは短い間だったがボゴタ市長に就任し、いくつかの功績を残した。それでも寡頭体制はビクともしなかった。


46年の選挙では自由党の分裂に乗じて保守党が政権を奪回し、マリアノ・オスピナ・ペレスの保守党政権が16年ぶりに復活した。この時、ガイタンは36万票を獲得し第3位につけている。

これを機に保守党を支持する大地主たちは自由党時代に失った土地を取り戻そうと暴力的手段に訴える。

コントラチェスマ(窮民制圧隊)という私兵集団を結成し、自由党員に対するテロを繰り広げた。これに対抗して自由党員も武装自衛隊を結成。コロンビアは内戦状態に移行していく。

ガイタンは保守党政権による暴力にあくまでも平和的手段で戦おうとした。ガイタンは自由党員によるデモを行ない、保守党の暴力に抗議した。

ガイタンは演説で、

「我々は政治的要求を掲げているのではなく、ただ自由と平和を求めているだけなのだ」

と語った。


1948年4月9日、ガイタンはボゴタ中心部の路上を歩いていた。エル・ティエンポ新聞社で行なわれる予定だったキューバの学生たちとの対談に出席するためである。この学生の顔触れには、後のキューバ革命の指導者フィデル・カストロ・ルスの姿も含まれていた。

ちょうど同じ頃、ボゴタでは米州機構(OAS)の総会が行なわれていた。総会では共産主義の侵略に対抗するため、中南米のいかなる国に対する攻撃もアメリカに対する攻撃とみなし、共同で反撃するという「ボゴタ憲章」が採択された。

午後1時5分ごろ、ガイタンはヒメネス・デ・ケサーダ通りと7番通りの交差点で突然、1人の男に拳銃で4発撃たれた。

ガイタンはただちに病院に運ばれ手当てを受けたが、そのまま意識が回復することなく息を引き取った。

犯人はフアン・ロア・シエラという青年だった。激怒した民衆は彼を捕らえるとリンチにかけ、その場で殴り殺し、さらに死体を引きずり回した。

興奮の極みに達した群衆は口々に、

「革命だ!革命が始まった!」

と叫びながら、警察署を襲い武器を略奪し、カーサ・デ・ナリーニョ(大統領官邸)を目指した。

銃撃戦が始まった。町のあちこちから煙が上がり、銃声が空にこだました。暴動は市民革命の様相を呈した。暴徒の群れにはカストロの姿も含まれていた。

ガイタン暗殺の報は瞬く間に全土に広がり、暴動は各地に飛び火した。

市民軍はボゴタ市外に掛かる橋を切り落とし、軍隊の侵入を阻止した。戦闘は夜に入っても続き、カストロは市民兵とともにボゴタ市内のモンセラーテ山中で夜を明かした。


このガイタン暗殺とボゴタの暴動をきっかけにコロンビアは現在まで続く暗黒の時代に突入するのである。以後の10年間は「ラ・ビオレンシア(暴力)」の時代と呼ばれる。

ボゴタで開催中のOAS総会は中止となった。出席者のマーシャル米国務長官は、

「暴動は共産主義者の仕業だ」

と決め付けた。

オスピナ政権は「武器を引き渡した者は罪を問わない」と約束したが、地方から軍が到着するのを待ち、徹底的な弾圧に乗り出す。

カストロは仲間のほとんどを殺され、命からがら飛行機に忍び込んでボゴタからの脱出に成功した。後に彼は祖国キューバで革命を起こすことになるが、それは10年後の話である。

ガイタンがなぜ暗殺されたのか、暗殺を命じたのは誰なのか、今も謎に包まれている。次の選挙で当選確実と言われたガイタンが殺されたことで、コロンビアはあまりにも大きな代償を支払うことになる。


オスピナは閣内から自由党員を締め出し、保守党超強硬派のローレアノ・ゴメスが実権を握る。50年に大統領に就任したゴメスは超反動的な政策を採り、2年間で5万人の自由党員を処刑し、多くの自由党員が合法闘争を放棄してゲリラ戦に入った。コロンビアは19世紀以来の血で血を洗う内戦に突入する。

これを「ローレアノ戦争(第一次ビオレンシア)」という。

また、この不安定な時期にも関わらず、コロンビアは朝鮮戦争に陸軍の1個大隊を派遣した。これに反対したコロンビア共産党書記長マヌエル・マルランダは警察に逮捕され、警察署で拷問の末に虐殺された。

マルランダの部下だった共産党活動家ペドロ・アントニオ・マリンは、彼の遺志を継いでゲリラ闘争に入った。マリンは自らを「マルランダ」と名乗り、後に誘拐と麻薬取引で悪名高い左翼ゲリラ組織コロンビア革命軍(FARC)を創設することになるのである。

自由党の反乱は次第に自由党系農民の大土地所有制反対闘争に変質していった。52年、ゴメスは恒久的な独裁体制の確立を目指し、スペインのフランコ体制をモデルにしたファシズム憲法を制定した。言論の自由はなくなり、新聞は検閲され、反体制派は容赦なく投獄された。

ゴメスはチュラビスタと呼ばれる保守系農民を使って自由党系農民を根絶やしにしようとした。地方では虐殺が行なわれ、自由党ゲリラの抵抗もまた激しさを増していった。

やがてゴメスの独裁が保守党内部や特権階級にも受け入れがたいものになっていくと、保守党穏健派と自由党は水面下でゴメス政権打倒のため軍部に介入を要請した。

これに応じて朝鮮戦争の英雄である陸軍のグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が軍事クーデターを起こす。1953年6月14日のことである。


無血クーデターでゴメスは解任され国外追放となった。ロハス将軍は軍事政権を樹立し、内戦に参加する自由党員に恩赦を与えた。これに応じて自由党員の多くが投降し、いったん内戦は終息に向かった。

コロンビアで軍事政権が誕生したのは、この時を含めてわずか3回だけである。他の中南米諸国では当たり前に繰り返されたクーデターや独裁も、ここコロンビアではほとんど起こらないのだ。そういうものを嫌う国民性なのだろうか。

だが、その割には政情は安定せず、内戦が後を絶たない。とても矛盾している。理解に苦しむ。


ロハスは「社会復帰救済局」を設置し、娘のマリア・エウヘニア・ロハス・デ・モレノ・ディアスを局長に就任させ、土地改革を行なおうとした。一方で、大地主の要請に応じて、農民に占拠された土地を取り戻すため、地方に軍を派遣した。

ロハスはアルゼンチンのペロン大統領を真似て、自らの支持基盤を自由・保守という伝統的な二大政党ではなく民衆に置こうと考え、ポプリスモ(大衆迎合政策)を採った。しかしこの政策は民衆の支持を得るより早く支配層の造反を招くことになる。

1955年6月、ロハスはゴメス政権のためにテロを行なっていた者たちに恩赦を与えた。「ゴメシスタ」と呼ばれたテロリストたちは釈放されるやただちに罪のない農民たちを虐殺し始めた。

こういう曖昧な態度がロハスの首を絞めた。ゴメシスタの蛮行に対して自由党系農民たちは再び武装し、ロハスも武装農民の弾圧に乗り出す。こうして「ビジャリカ戦争(第二次ビオレンシア)」と呼ばれる内戦が再燃する。

ロハス政権は労働者保護政策を採り、労働者保護法を制定するなど多少いいこともしたのだが、こうした民衆寄りの政策は支配層の反発を招き、孤立したロハスは独裁傾向を強めていった。

1956年2月5日、ボゴタでロハス独裁に抗議のデモを行なっていた市民・学生が警官隊と衝突し、多数のデモ参加者が虐殺されるという「牛の首輪虐殺事件」が起こった。

ロハスは憲法を改正して長期独裁を図ったが、その頃、スペインに亡命中の保守党ゴメス前大統領と自由党は「国民戦線協定」という密約を取り交わす。その内容は自由党と保守党が合意して内戦を終わらせ、以後は自由・保守両党から4年ごとに交代で大統領を選出し、国会の議席も両党で仲良く半分ずつ分担するというものである。


1957年になるとロハスは反対派を徹底的に弾圧し始め、国民戦線の密談に参加したとして保守党党首ギジェルモ・レオン・バレンシアを逮捕した。これは学生や労働者の反感を招き、それまでロハスを支えていた民衆も「反ロハス」に回ってしまう。

これを好機と見た自由・保守両党は大規模なゼネストを組織し、抗議デモを行なった。教会や軍部もロハス不支持に回り、支持母体である軍部からも見放されたロハスは57年5月10日、大統領を辞任しスペインに亡命した。

結局、ロハスの独裁も4年足らずで終わった。

57年11月、自由・保守両党は国民戦線協定に合意し、10年に及んだラ・ビオレンシアの時代に終止符を打った。この10年間の犠牲者は10万人とも20万人とも言われる。


しかし、その後もコロンビアに平和は訪れなかった。自由党を支持して戦っていた農民たちは、約束した土地も得られず、ただ政争の道具に利用されてあっさりと切り捨てられたのである。

寡頭体制はビクともせず、二大政党による政権交替が続いていくだけ。結局、いたずらに血を流しただけで、革命も何も起こらなかった。残されたものはおびただしい死と破壊だけだったのである。


コロンビア歴史物語 第3話

ボリーバルの死後、大コロンビアは求心力を失い、1830年にはベネズエラとエクアドルが離脱し、大コロンビアというひとつの国家は消滅した。

1832年には国外追放中のサンタンデールが亡命先から帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国大統領に就任。サンタンデールは保護貿易により経済を発展させ、奴隷貿易を廃止し、教育制度を改革するなど自由主義的な政策を行なった。

1835年にはコーヒー豆の輸出も始まり、コーヒー栽培がコロンビア経済を支える重要な産業となっていった。

コロンビアでコーヒー豆の栽培が始まったのは1732年。隣国のベネズエラから持ち込まれた苗木がオリノコ川流域に広まり、やがてコロンビア全土に広まっていった。

当初はコーヒー農家が各自勝手に作っていたのだが、品質を統一するため、1927年に国立コーヒー生産者連合(FNC)が設立され、現在ではコロンビアのコーヒー生産及び輸出はすべてFNCを通して行なわれることになっている。


1849年、コーヒー農家や小規模事業主、新興財閥を中心に自由党が結成されると、これに対抗する形で大地主やカトリック教会といった支配層を中心に保守党が結成された。

ここからコロンビアは自由・保守両党の二大政党制が続いていくことになる。

コロンビアは中南米では珍しく革命やクーデター、独裁政権といったものをほとんど経験していない国である。

独立後は基本的に選挙による平和的な政権交替と民主主義統治が続いてきた。そのため「西半球で最も古い民主主義国家」と評されることもある。

だが、独立後は内戦が絶えず、政情は不安定である。後には反政府ゲリラが生まれ、今日まで泥沼の内戦が続くことになる。


やっとのことでスペインの植民地支配から独立を果たしたコロンビアだったが、多くの独立国家同様、その前途は多難だった。

コロンビアの新生国家としての苦悩ぶりはその国名の変遷ぶりを見ても分かる。「大コロンビア」として出発した後、1831年には植民地時代の名前に戻し「ヌエバ・グラナダ共和国」となる。1858年には「グラナダ連合」となり、63年には「コロンビア合衆国」と改名。1886年にようやく今の「コロンビア共和国」となった。


独立後は自由党と保守党の二大政党制による民主主義統治の原則は一貫して維持されたものの、自由・保守両党は特権階級による寡頭支配体制を維持するという点では共通していた。

1849年から53年まで自由党のホセ・イラリオ・ロペス大統領が政権を握った。ロペス政権はイエズス会を追放し、教会の財産を没収して政教分離を図り、自由主義的な政策を採った。

1854年に大統領に就任したホセ・マリア・メロ将軍は、保護貿易を求める国内の手工業者を支持基盤としていたが、57年に保守党のマリアノ・オスピナ・ロドリゲスが大統領に就任すると、ロドリゲスは保護貿易を廃止し、自由貿易を導入した。

これによって外国資本が流れ込み、せっかく成長過程にあったコロンビアの工業基盤は壊滅してしまった。

ロドリゲスは教会の特権を復活させ、中央集権化を図り、自由主義者と対立したため、1861年にはカウカ県の自由主義者トマス・シプリアーノ・デ・モスケーラが反乱を起こし、同年7月、ボゴタを制圧してロドリゲスを追放した。

モスケーラは大統領に就任し、1863年には自由主義的な憲法「リオ・ネグロ憲法」を制定した。

モスケーラは教会の財産を没収し、商人や大地主に売却して国家財政の建て直しを図ったが、これにより大土地所有制が一気に進行し、教会の管理下にあった多くのインディオが小作人となるか、都市に出て労働者となるかを迫られた。

この間も自由党と保守党の小競り合いはやまず、コロンビアは内戦状態が続いた。

1867年には自由党がクーデターでモスケーラを追放したが、その後も政争は続き、20年間に50回以上も反乱が発生するなど政情は不安定なままだった。

1879年に自由党のラファエル・ヌニェスが大統領に就任し、行き過ぎた自由主義を改め、中央集権化を図るが、保守党支持者による反乱が起こり、80年まで続いた内戦で8万人が犠牲となった。

ヌニェス政権は反乱を鎮圧し、コーヒー輸出で外貨を稼ぎ、全土に鉄道網を敷設するなど民生にも力を入れた。しかし政情は安定せず、85年にはヌニェスが憲法を破棄し、自ら独裁者になってしまう。

86年には保守的な憲法が制定され、この憲法はその後100年以上も続いた。ヌニェス政権は保守化と独裁化を強め、1890年代に入ると自由主義者による反乱が相次いだ。

1898年にはマニュエル・アントニオ・サンクレメンテが大統領に就任したが、病弱のため実際の執務は出来ず、副大統領のホセ・マヌエル・マロキンに任せっきりだった。


1899年、コーヒー豆の国際相場が暴落。コロンビア経済は一気に奈落の底に突き落とされる。

この経済危機に対し、当時の保守党政権は何ら有効な対策を打てず、関税収益の不足分を補うため不換紙幣を乱発した。

金本位制を採る当時の世界経済で、不換紙幣を増刷するというのは自殺行為以外の何物でもなく、コロンビア経済はたちまち猛烈なインフレーションの進行で壊滅してしまった。

同年10月、自由党急進派のラファエル・ウリベ・ウリベ将軍、ベンハミン・エレーラ将軍、フスト・ドゥラン将軍が蜂起し、コロンビアは3年間にわたる内戦に突入した。

この内戦は「千日戦争」と呼ばれた。自由党はゲリラ戦で抵抗し、3年に及んだ戦闘による死者は民間人も含めて7万5千人から15万人にも達したという。

同じ頃、アメリカ政府はパナマ地峡に運河を作り、その権益を独占したいと考えていた。パナマは今でこそ独立国家だが、当時はコロンビアの一部に過ぎなかった。

アメリカはパナマを欲しがっていたが、コロンビアが内戦状態ではどうしようもない。そこでコロンビア政府に働きかけて早く内戦を終わらせるため、自国民を保護するという口実でコロンビアに軍艦を送り海兵隊を上陸させたりして圧力を掛けた。


1902年に内戦は終結した。和平協定の調印はアメリカの軍艦の中で行なわれた。翌年には、コロンビア政府はアメリカ政府との間で「ヘイ・エラン条約」を結ばされる。これはパナマ運河の権利をアメリカがコロンビアから買い取るという条約である。

3年に及ぶ内戦でコロンビアはズタボロになっていた。その混乱に乗じる形でアメリカはパナマに出兵し、パナマ地方の反乱を支援して、1903年にはパナマを独立させてしまった。


1904年に大統領に就任した保守党のラファエル・レイエスは、国内経済を建て直すため、再び保護貿易政策を採り、国内開発に力を注いだ。

その後、アメリカとのギクシャクした関係はしばらく続いたものの、1914年にはアメリカのウィルソン大統領がコロンビア政府に「遺憾の意」を表明することで仲直りし、コロンビアもようやくパナマの独立を承認した。

アメリカとの関係修復後、コロンビアにはアメリカから多額の資金が流れ込み、経済成長が続いた。こうして「アメと鞭」で他国を支配してしまうのがアメリカの常套手段だ。


しかし、外資導入で潤ったのは一部の金持ちだけだった。多くのコロンビア人は独立前と何ら変わらない貧困の中に置き去りにされていたのである。経済成長とともに、その恩恵を受けられない貧困層の不満も高まっていった。


コロンビア歴史物語 第2話

スペインによる支配は300年近くも続いたが、18世紀も後半になると、アメリカ独立やフランス革命の影響もあり、次第に本国スペインからの独立を求める機運が盛り上がっていく。

その最初の動きが1781年に起きた「コムネーロスの乱」である。

ソコロ地方(現在のサンタンデール県)でタバコ税などの増税と物価高騰に苦しむクリオーリョ(現地生まれの白人)たちを中心とした増税反対一揆は、革命委員会(コムン)が結成され、一時は独立的動きを見せたが、スペイン本国政府が増税を撤回したため終息した。

やがて19世紀を迎え、ナポレオン戦争で宗主国スペインがナポレオン・ボナパルトの率いるフランスに侵略されると、スペイン支配下の南米植民地ではフランス傀儡の本国政府への忠誠を拒否し、コロンビアでも独立運動が活発化していく。


コロンビアの歴史を語る際に切っても切れないのが独立運動の指導者シモン・ボリーバル(1783~1830)である。

ボリーバルはベネズエラ生まれのクリオーリョで、南米有数の資産家だった。しかし当時としては珍しく自由主義者であり平等主義者であった。ボリーバルは自らの財産をなげうって南米解放という偉業を成し遂げることになる。

1810年7月20日、ヌエバ・グラナダの独立活動家アントニオ・ナリーニョ(1765~1823)はボゴタ副王を追放し、スペインからの独立を宣言した。

しかし本国スペインで1813年にフェルナンド7世が復位し、反動的な政策に出たため、コロンビアの独立運動は困難に直面し、独立派内部でも連邦派(カルタヘナ派)と中央集権派(ボゴタ派)の対立が表面化するなど足並みはそろわず、スペイン軍の前に苦戦を強いられる。

1814年2月、ボゴタがスペイン軍の手に落ち、ボリーバルはカリブ海沿岸の都市カルタヘナに逃れ、ここを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したが、翌年6月にはカルタヘナで王党派の反乱が起こり、ボリーバルは敗れて命からがらイギリス領ジャマイカに逃亡した。

1816年5月、ボゴタがスペイン軍により再び占領されると、ボリーバルは当時唯一の黒人独立国家だったハイチのペティオン大統領の力を借り、隣のベネズエラから反撃を開始する。

ペティオン大統領はボリーバルに南米を解放したあかつきには、黒人奴隷をすべて解放し自由の身にすることを条件に援助を受け入れた。

1819年にベネズエラの完全独立に成功したボリーバルは、ベネズエラを拠点にコロンビア解放戦争を推し進め、同年8月7日、ボゴタ郊外のボヤカ高原でスペイン軍を撃破し、最終的にコロンビアの独立は成功した。


その後、ボリーバルはスペインの残存勢力を駆逐しながら南下し、エクアドル、ぺルー、ボリビア方面の解放に成功する。1825年に独立したボリビアは、ボリーバルの偉業をたたえ、その国名を「ボリビア」と命名した。

こうして南米諸国の独立に大きく貢献したボリーバルだが、独立後のこれらの国々はまだまだ未熟で、問題が山積みになっていた。

ボリーバルはこれらの国々が再びスペインに侵略されないよう、ひとつの大きな国にまとめて一致団結し列強に対抗していく必要性があると考えていた。

ボリーバルはベネズエラ、コロンビア、エクアドルを含む広い地域をまとめて「大コロンビア」というひとつの巨大な国家を建設した。

ボリーバルは大コロンビアの初代大統領に就任した。副大統領は独立戦争に参加したヌエバ・グラナダ出身の軍人で法律家のフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール(1792~1840)である。

ボリーバルは国力を強化するために中央集権的な政治を目指した。しかし、副大統領のサンタンデールは中央集権に反対し、あくまでも連邦制国家を目指すべきだと主張した。


この中央集権派と連邦派の対立が後々まで尾を引くことになる。コロンビアは広大な国土に多様な環境を持つ国だ。ゆえに昔からそれぞれの地域ごとの独自性が強く、南米で最も地域主義の強い国である。

たとえば、コロンビア中部のアンティオキア地方の人間は、自分たちがコロンビア人である以前にアンティオケーノ(アンティオキア人)であるという自負が強い。

後にコロンビアはイギリス、そしてアメリカに経済的に従属し、経済の実権はほとんど外資に握られてしまうことになるのだが、アンティオキア地方だけはアンティオケーノのみによって運営されていくことになる。


この対立の背景には、地域主義の他にもいろいろな問題が複雑に絡み合っていた。

コロンビアを含めた中南米諸国は、宗主国スペインの需要と供給に合わせて作られた国である。そのため独立後も植民地としての生産拠点という経済構造がそのまま残され、自立していくだけの経済的基盤が何もなかった。

ほとんどの土地が大地主や富裕層といったほんの一握りの特権階級が独占し、大多数の国民は独立前と同じ奴隷の状態に置かれたままだった。

平等主義者であり、ハイチのペティオン大統領とも約束したボリーバルは、独立後ただちに奴隷制を廃止し農地を解放しようとしたが、それまで国の富と権力を牛耳ってきた特権階級がそれを支持するわけがなかった。


大地主たちはボリーバルの中央集権的な改革に反発し、連邦主義を唱え、サンタンデールを担いで激しく対立するようになる。

1828年9月25日にはボゴタ中心部でボリーバル暗殺未遂事件が発生。事件への関与が疑われたサンタンデールは死刑を宣告されるが、彼が暗殺計画に参加した証拠はなく、ボリーバルの暗殺に反対したことが判明したため、ボリーバルは罪一等を減じ、国外追放処分とした。

さらにエクアドルのキト地方を巡ってのコロンビアとペルーの対立も激化し、ベネズエラが大コロンビアからの独立を要求するなど、もはやボリーバルのカリスマ性と独裁をもってしても混乱の収拾は不可能となった。

すべての努力が水泡に帰したことを悟ったボリーバルは大統領を辞任し、失意のうちにヨーロッパへ向けて旅立とうとする。が、その矢先に立ち寄ったコロンビアのサンタマルタで黄熱病にかかり、淋しくこの世を去っていった。

南米解放に生涯を捧げた男のあまりにも寂しい最期であった。大富豪だったボリーバルも、独立運動のために全財産を使い果たし、すでに無一文になっていた。

死の間際、ボリーバルはこう言い残したという。

「この世には偉大な3人の馬鹿がいる。イエス・キリストとドン・キホーテとこの私だ」


コロンビア歴史物語 第1話

まず、コロンビアという国がどこにあるか知らない人のために解説。

世界地図を広げてほしい。南アメリカ大陸の一番上、南米の玄関に当たるところにあるのがコロンビアだ。正式名称はコロンビア共和国。北にパナマ、南にエクアドルとペルー、ブラジル、東にベネズエラと隣り合っている。

面積は約113万平方キロメートル。日本の3倍強。人口は約4500万人で、日本の3分の1くらい。中南米ではブラジルとメキシコに次ぐ多さだ。人口の6割がメスティーソ(混血)で、白人、インディオ、黒人、ヨーロッパ系やアラブ系、東洋人もいる。

国土の真ん中をアンデス山脈が走り、マグダレーナ川という大きな川が国土を真っ二つに割るように流れている。東にカリブ海、西に太平洋が広がり、国土の南はアマゾンのジャングルだ。人が住み着いているのはほとんどがアンデス地方で、南部のジャングル地帯にはほとんど人が住んでいない。

コロンビアは世界中の気候を持つ国と言われる。起伏に富んだ地形が熱帯、温帯、冷帯の様々な気候をもたらす。

同じコロンビアでも首都ボゴタは標高2600メートルの高原にあり、富士山の7合目くらいの高さだ。ゆえに熱帯にありながら年中涼しく春か秋のような気候である。

一方、カリブ海に面した港湾都市カルタヘナは常夏である。新鮮な魚やトロピカル・フルーツがふんだんに手に入る。アンデスの山岳地帯は乾燥していて寒くて雪も降るが、アマゾンのジャングルはジメジメと蒸し暑く年中雨が降り人の体にカビが生えてしまうほどの高温多湿の環境である。

国民の大多数はキリスト教カトリックのクリスチャンである。コロンビアはもともとカトリック教会の力の強い国で、国家と宗教が密接につながっていたが、近年は世俗化で国民の信仰心はそれほど強くはなく、全国民の6割はさほど熱心に宗教を信仰していないという。

公用語はスペイン語である。コロンビアのスペイン語はスペインのアンダルシア地方の「正統派スペイン語」とされ、最も発音の正しい美しいスペイン語と言われる。そのため、スペイン語を学ぶためにわざわざコロンビアに留学する者もいるほどだ。

コロンビアという国名の由来はアメリカ大陸の発見者クリストファー・コロンブスにちなんでいる。ちなみにアメリカにもコロンビアという地名は沢山あるが、そちらのコロンビアは「Columbia」である。国としてのコロンビアは「Colombia」なのでスペルの違いに注意されたい。


コロンビアの歴史は古く、今から5千年前にはすでに中米から渡来した先住民インディオの文明が発生していたとされる。

コロンビアの先住民で最大のものはチブチャ族で、彼らはペルーのインカ帝国にも匹敵するほどの高度な文明を持ち、酋長を基盤とするゆるやかな連合国家を築いていた。

16世紀にスペイン人の侵略が始まったとき、チブチャ族はバカタ国とウンサ国というふたつの国に分かれていた。

1538年、スペインのコンキスタドーレス(征服者)であるゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダは黄金を求めてコロンビアを探検し、マグダレーナ川をさかのぼってバカタ国にたどり着いた。

ケサーダは難なくバカタ国を滅ぼし、ここに現在の首都ボゴタを築いた。ボゴタという地名はバカタにちなんでいる。

ケサーダは他の征服者と同様、南米大陸には黄金があるという伝説を信じていた。しかしボゴタ周辺では大規模な金脈は発見できなかった。ケサーダが見つけたのはわずかなエメラルドだけだったと言われている。

しかしスペインの黄金熱は冷めることがなかった。コロンビアが「エル・ドラード(黄金郷)」と呼ばれた所以である。

征服者たちは黄金を求めて先住民を征服し略奪し虐殺し、醜い争いの限りを尽くした。平和に暮らしていたインディオたちはたまったものではない。

征服者たちの行状があまりにも悪かったため、スペイン国王はコロンビアに副王を置き、「ヌエバ・グラナダ副王領」としてスペインの植民地にすることを決定した。

副王というのは国王の代理人である。今で言えば大企業が海外に合弁会社を作り、現地人に経営を任せるのと同じようなものだ。


1550年、スペインはコロンビアをヌエバ・グラナダ副王領とし、ボゴタに副王を置いて統治を始めた。

とは言え、コロンビアは広大である。飛行機も車も電話もなかった当時、これだけ広い土地を支配するのは困難を極めた。

ボゴタにいる副王から各地に伝令を飛ばし、指示を与え、報告を得て新たに指示を出すだけで何ヵ月かかるか分からない。そこで副王はもっと効率的な方法で植民地支配をスムーズに行なおうと考えた。

それが「エンコミエンダ制」である。エンコミエンダ制とは、キリスト教の宣教師を未開の地に派遣し、現地のインディオを改宗させ、彼らを保護・指導する代わりに、宣教師は彼らから労働力と税を得てよいというものである。

現地民を保護するとは言っているが、要するに奴隷制である。キリスト教でインディオを手なずけておいて、彼らを奴隷にして働かせようというのだ。

このエンコミエンダ制のおかげで植民地支配はその後300年近くも続くことになる。インディオたちは奴隷にされ、生かすも殺すも白人次第となった。

白人たちが行なった残虐行為の数々は目に余るものがある。中にはラス・カサスのような人道主義者もいて、インディオの虐待を告発し彼らの待遇改善に努力した白人もいたが、多くの白人はインディオを人間とはみなしておらず、家畜のようにこき使った。

コロンビアは人口の6割が混血である。白人がインディオを徹底的にレイプしたその名残りだ。征服者は必ず略奪とレイプを繰り返す。







上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。