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Author:土屋正裕
画像は南米コロンビアの首都ボゴタ中心部のボリーバル広場。明星学苑卒。



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ボゴタの街並み



写真は南米コロンビアの首都ボゴタ北部の街並みです。

ここはエル・ドラード国際空港から東へ10キロほどのところにあります。周辺は高級住宅街で、住んでいるのは富裕層が多いです。

ボゴタは標高2600メートルのアンデス山脈の盆地に広がる大都市です。人口は約780万人。富士山の7合目くらいの高さに800万人近くが住んでいます。

この高さになると酸素は平地の4分の3程度。慣れない人は軽い高山病になります。私は特に息苦しさを感じたり、めまいや吐き気を覚えることもないのですが、酸素が少ないというのはやはり体にとって負担です。

平地にいる時より体力を消耗しやすいのでしょう。私も夕方になると疲れがひどく、夜は眠くて眠くて仕方ありません。最初の頃は眠りが浅かったのですが、そのうち7~8時間は眠れるようになりました。

さて、コロンビアと言うと何を思い浮かべますか?コーヒー、エメラルド、かつてサッカーの強かった国といったイメージから、麻薬、ゲリラ、誘拐、殺人といった悪いイメージも多いと思います。

事実、コロンビアはつい最近まで「世界で最も危険な国」でした。1990年代の殺人事件の発生率は世界一。毎年3万人が殺害され、3千人が誘拐されていました。毎日100人が殺され、10人が誘拐されていた計算になります。

10年ほど前には日本企業の副社長が反政府ゲリラに誘拐され、その後、射殺された遺体で発見される事件も起こりました。とにかく「治安の悪い危ない国」というイメージが強いと思います。

私も「コロンビアに行く」と言うと、周囲から「殺されるよ」「誘拐されないように気をつけろ」とさんざん忠告されたものです。

しかし、実際に来てみれば分かりますが、今のコロンビアは全然危険ではありません。普通の国です。少なくともボゴタのような都市部に限っては、日本と同じくらいの治安の良さです。

信じられないかもしれませんが、私はここに来て一度も危険な目に遭ったことはありませんし、身の危険を感じたこともありません。スリやひったくりに気を付けていれば何の心配もありません。

私がコロンビアに発つ直前、この国を長年苦しめ続けてきた左翼ゲリラ「コロンビア革命軍(FARC)」の最高幹部アルフォンソ・カノが政府軍との戦闘で死亡し、ゲリラ組織の弱体化は顕著になっています。

ここボゴタにおいては、迷彩服姿で銃を構えたゲリラの姿を目にすることなどありませんし、郊外の農村地帯においてもそれは同じです。

どこでも武装した兵士や警察官の姿を目にするので、近年は一般犯罪も減っています。無論、まだ危険な地域もありますが、それはボゴタで言えば南部のスラム街など限られた場所だけで、普通の人はそんなところには行きませんから、観光やビジネスで訪れるならまったく治安の心配はいりません。

というわけで、これからボゴタを中心としたコロンビアの話をしていきましょう。


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ボゴタの空


今日のボゴタは曇りです。

ボゴタは周囲を山並みに囲まれた高地なので、空を眺めていると、天気がよくても急に鉛色の雲が広がってきて、冷たい雨が滝のように落ちてきます。

山の天気は変わりやすいです。今は雨季なので、ほとんど毎日のように雨が降りますが、日本の梅雨のようにシトシトといつまでも降り続けるようなことはありません。

バケツを引っくり返したような豪雨が降ってきて、小1時間もすれば止んでしまいます。

天気のいい日は日差しが強烈で、空気もカラッとしていますから、本当に過ごしやすいです。ボゴタが「常春の都」と呼ばれた所以です。

ボゴタという地名は、かつてここに住んでいた先住民ムイスカ族の王国バカタにちなんでいます。「バカタ」がなまって「ボゴタ」になったのです。

ボゴタの歴史は古く、この地を征服したスペインのConquistador(征服者)、ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダによって1538年に創建されました。今から470年以上前のことです。

スペイン植民地時代はサンタフェ、あるいはサンタフェ・デ・ボゴタと呼ばれ、1717年にヌエバ・グラナダ副王領(現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドルを含めた地域)が設置されると、ボゴタに副王(スペイン国王の代理人のようなもの)が置かれ、ボゴタは南米大陸北部の主要拠点として栄えました。

その後、スペインの支配はじつに300年近くも続きます。19世紀に入ると、コロンビアでも独立運動が盛んになり、独立の英雄シモン・ボリーバルたちの活躍を経て、1819年に完全独立を達成し、ボゴタは名実ともにコロンビアの首都になりました。

1991年には名称を植民地時代のサンタフェ・デ・ボゴタに戻したのですが、長ったらしくて使いにくいということで、2000年に再び現在の名称に戻しました。

写真では分かりにくいと思いますが、背景の山の頂上付近は標高が3千メートルを超えています。雲はそれ以上の高さにありますから、降ってくる雨はとても冷たいです。


ボゴタの雨



今日のボゴタは雨です。

今は雨季(だいたい3月~5月、9月~11月)なので、本当に毎日のようによく雨が降ります。

近年はエルニーニョ現象やラニーニャ現象の影響で、あまり雨季と乾季の区別はなくなっていると言われていますが、ボゴタは山の中にあるのでコロコロ天気が変わります。

朝は晴れていても、急に曇ってきて雷雨になったりするので、まったく油断は出来ません。

ボゴタの道路事情はかなり悪く、排水溝のない道が多いため、大雨が降るとほとんどの道路が冠水して、ひどい時は浸水してしまう地区も出てきます。

コロンビアは今年、春から全国で大豪雨と大洪水の被害が続いていて、私のいるボゴタのクンディナマルカ県でもあちこちで土砂崩れや浸水が起きていて、死者や避難民も出ています。

ボゴタは標高が高いので雨も冷たいです。ここの人はあまり傘を差すという習慣がなく、雨の中でも平気で歩いています。レインコートがあると便利です。晴れていても風は結構涼しいので、長袖の衣服は欠かせません。


ボゴタの朝



ボゴタの朝は早いです。

私も夜はかなり早く寝てしまうので、夜明け前に目が覚めてしまうのですが、だいたい午前5時ごろから道路の交通量が増え始め、6時には一斉に通勤・通学する人々の群れに出くわします。

私が聞いた話では、ボゴタの公立学校(ここでは初等教育5年、中等教育6年で、義務教育期間は9年です)の始業時間は午前6時45分なので、かなり早いですね。

コロンビアは南米の国ですが、いわゆるラテン系とは少し違い、国民性は真面目で勤勉です。本当にみんな、朝から晩まで一生懸命に働いています。

近年は治安が劇的に改善されたので、ボゴタは一種のバブル景気になっていて、あちこちで建設ラッシュが始まっています。

ボゴタはコロンビアの首都ですが、海から遠く離れた内陸の高地にあるため、産業の発展は遅く、1920年代頃まではこれと言った産業もありませんでしたが、最近は治安回復で外国資本の流入がめざましく、日本人から見れば羨ましくなるほどの成長と発展を遂げています。

反面、急激な人口増加に追い付かず、住宅地は山の上に上に広がっているのですが、見ていて危なっかしいような急斜面に簡単な構造のマンションやアパートが乱立しているのを見ていると、崖崩れが起きたら大変なことになると思います。

ボゴタは地震がほとんどなく、したがって建物も日本のように耐震を考慮しなくてもいいので、基本的にレンガを積み上げただけの簡素なものが多いです。

高地で酸素が薄いため、火災もあまり起きません。無論、コロンビアには原発もありませんから、放射能汚染の心配も皆無です。

ボゴタには歴史的な建造物が多いのですが、地震と火事の恐れが少ないということが大きいと思います。

あとは水害と犯罪に注意していればいいので、ボゴタはなかなか住みやすい土地だと思いますね。


ボゴタの遠景





ボゴタ北部の山の上から見たボゴタの遠景です。

ボゴタは全長500キロにも及ぶ広大なボゴタ盆地に広がる大都市で、市中心部(セントロ)から北部(ノルテ)にかけて高級住宅街が広がり、逆に南部(スール)に行けば行くほど低所得者の住む地区が広がっていきます。

南北でハッキリと貧富の格差が分かれているのが象徴的で面白いのですが、私のような外国人は南部のスラム街などに行けば真っ先に狙われますから、旅行者の方は決して興味本位で立ち入らないように注意してください。

1枚目と2枚目の写真は高級住宅街です。外国人もだいたいここに住んでいますが、ボゴタでは東洋人の姿を見かけることは滅多になく、私のような日本人は非常に目立ちます。

近年はコロンビアで日本文化が静かなブームになっていて、日本語を学びたがる人も増えていて、私は道を歩いていると「コンニチハ!」と向こうから声をかけられることがあります。

ボゴタの主要施設はだいたい北部に集まっていて、この写真には写っていませんが、コロンビアを代表する国際空港であるエル・ドラード空港もこの近くにあり、時々、飛行機が離着陸するところを見ることが出来ます。

1枚目の写真の右手の木が生い茂っているところの向こう側には陸軍の士官学校があり、この日は演習をやっているとかで山の上まで勇ましい太鼓の音が響いてきていました。

さて、もうお気づきでしょうが、ボゴタは標高が高いのに、木々が青々と茂っていますね。

これはボゴタが高地でも、赤道に近い熱帯に属するため、植物の成長には適した環境にあり、富士山の7合目くらいの高さでも緑が豊富なのです。

日照量も多いので、近年は切り花の栽培と加工も盛んです。ボゴタ郊外に行くと、日本向けのカーネーションやバラの温室が延々と続いています。

3枚目の写真を見てください。私がいる地点で標高は2600メートルを超えていますが、ご覧のように樹木が元気に育っていますね。

4枚目の写真は山の上の方を撮ったものですが、山頂付近は標高3千メートルを超えています。それでもびっしりと森が広がっているのが分かると思います。

日本では、車で行ける富士山の5合目でも緑はわずかですから、何とも不思議な光景です。

ボゴタは本当に緑の豊富な街で、私はとても好きなのです。


ボゴタの繁華街



写真はボゴタ市内の繁華街です。

ここはノルテ(北部)に位置する比較的高級なお店が立ち並ぶ通りで、日本で言えば原宿や六本木みたいなところでしょうか。

週末の夜ともなれば若者たちで賑わいます。ちょっと洒落たブティックや飲み屋が軒を連ねており、お金持ちのお坊ちゃんやお嬢さんが派手に散財していくのですが、これもコロンビアの治安が改善されたおかげです。

1枚目の写真はボゴタ有数の土産物店や郷土品を売るお店が並ぶ通りです。パナマ帽やポンチョ(コロンビアの民族衣装)や先住民の遺跡からの出土品のレプリカなどが売られています。

コロンビアでは、やたらに写真を撮っていると怪しまれるので要注意です。治安が良くなってきたとは言え、まだゲリラもいて内戦が継続中ですし、特に人物の撮影はテロや誘拐の標的になりやすいので、誤解を招く恐れがあります。

それでもコロンビアはコスタリカ、チリと並んで「世界3C美人国」と呼ばれるほど美男美女の多い国です。ボゴタでも本当に素顔が美しい人が多いのです。

ボゴタは道が悪いので、足元に注意していないと不意に穴に足をとられて転ぶことがあります。マンホールは穴だらけですし、歩道は凹凸が多いので、写真撮影に気を取られていると思わぬ災難に遭うこともありますから注意しましょう。


ボゴタの露店


写真はボゴタの露店です。

ボゴタに限らず、コロンビアはどこの町でも露天商が元気に商売していますが、ボゴタではなんだかよく分からないものを売っているので面白いです。

これは鳥とか亀とか恐竜?らしきものの玩具ですが、左に見える赤いドラゴンみたいなものは翼がパタパタ動いていました。

この近くではゴジラのような怪獣の玩具が所狭しと並べて売ってあったのですが、場所は交差点の横断歩道のすぐそばです。

交通の邪魔になることおびただしいものがあるのですが、そこは大らかなコロンビア人気質と言いますか、誰も気にしないところがいかにもなあ、と思いました。


コロンビアのタクシー


コロンビアのタクシーは黄色です。

写真はボゴタのタクシーですが、すべて韓国製です。

コロンビアは韓国企業の進出が凄まじく、今や車も家電製品もほとんどすべてが韓国製に席巻されてしまいました。

何故、韓国製が強いのかと言うと、韓国企業は1990年代後半、日本企業がコロンビアの治安悪化で撤退してしまったのをチャンスととらえ、積極的に猛烈な売り込みをかけたせいです。

そのおかげで日本勢は南米から完全に駆逐されてしまい、コロンビアの治安改善で日本企業も必死になって再進出を図っていますが、もはや韓国勢には太刀打ちできないというのが現実です。

街中で見かける車も韓国のヒュンダイ製が多いです。わずかにトヨタやニッサンの車も見かけますが、コロンビアは自動車輸入の関税が高いので、日本車は人気でも富裕層にしか手が出せない「高嶺の花」なのです。

韓国製のタクシーは車体が軽量で、言葉は悪いですが「ちゃち」な造りです。私はつい、日本にいる時と同じようにドアをバタン!と力いっぱい閉めてしまうのですが、すると車体が大きく揺れて、運転手さんを驚かせてしまうことがあります。

ちなみにコロンビアは朝鮮戦争では中南米で唯一、韓国に援軍を派遣した国でもあります。そうした歴史的な背景から、コロンビアと韓国は「血で結ばれた友情」の国なのだとか。

ボゴタにも韓国人が住んでいて、韓国料理のお店がありますが、地球の裏側のこんなところにまで「韓流」が押し寄せてきているのを見ていると、複雑な気持ちになりますね。


コロンビアの猫



さて、コロンビアでは犬をよく見かけるのですが、何故か猫はほとんど見ません。何故でしょう?

聞いた話ですが、猫の寄生虫?が女性の不妊症を誘発するとかで(たぶん、デマでしょう)、コロンビアでは猫はあまり人気がないのだそうです。

まあ、犬も飼い犬と言うよりかは野良犬の方が多いので、趣味で動物を飼えるほど裕福な人間が少ないというのもあるのでしょう。

それでもボゴタにはペットショップがあります。先程ご紹介した繁華街からタクシーで10分ほどのところです。ペットショップが立ち並ぶ一角があります。

コロンビアでは、肉屋でも魚屋でも花屋でも洋服屋でも八百屋でも家電品店でも、一ヵ所に集中していることが多いので分かりやすいのですが、ペットショップも同じです。

店の外にカゴを出して、子犬や子猫を見せています。ここでも人気なのはやはり犬で、店をひやかしていく人も猫にはあまり興味を示しませんでした。

私は子供の頃からずっと猫を飼っていましたから、どちらかと言うと犬より猫派なのですが、ボゴタで可愛い子猫ちゃんを見かけた時は思わず嬉しくなって写真に撮りました。


コロンビアのナマズ



ここは熱帯魚を専門に売るお店です。

コロンビアはブラジルとの国境地帯に広大なアマゾンの密林が広がり、世界的にも魚や鳥や両生類の宝庫なので、ボゴタでも色鮮やかな熱帯魚の数々を目にすることが出来ます。

1枚目の写真はピラニアです。小さいですが、これはおそらくアマゾンでもペルーのアンデス地方の比較的寒い地域に住んでいる種類で、本場のアマゾンにいるやつはもっと大きくて獰猛です。

2枚目の写真は少し分かりにくいかと思いますが、ナマズです。ボゴタは山の中なので、海の魚はあまり食べないのですが、ナマズは「バグレ」と言ってスープにしてよく食べます。

コロンビアは幸か不幸か、長年の内戦で国内の開発が遅れ、人が住んでいる地域はボゴタをはじめとするアンデス山脈などに限られており、動植物の天国であるアマゾンなどの天然の密林は長らく手つかずのままだったので、今でも貴重な自然がそのままの状態で守られていることが多いのです。

つい最近もパナマとの国境付近のジャングルで、新種のカエルが発見されたというニュースが流れました。まさしくコロンビアは「自然の宝庫」なのです。


ボゴタのシーフード




さて、腹が減ってきたので昼食です。

コロンビアの郷土料理と言えば、アヒアコ(鶏肉とジャガイモの煮込み)やサンコチョ(鶏の澄まし汁)、アサード(焼肉)、アレパ(トウモロコシ粉のパン)、エンパナーダ(アレパにチーズやアボカドなどの具材を挟んだもの)などが有名ですが、無論、そうした郷土料理ばかりではありません。

ボゴタは海から遠く離れた内陸部にあるため、魚介類を食べることは少ないのですが、それでも近年は輸送機関の発達で、ここボゴタでも海の魚を食べる機会は増えてきました。

写真はボゴタでも有名なシーフード・レストラン(1階が鮮魚の売り場になっていて、2階が大きな食堂)でいただいた料理です。

前菜はサラダとスープ。コロンビアでは生の野菜を食べる習慣があまりないせいか、サラダと言っても日本のようにドレッシングをかけるという発想がなく、生のままの野菜をバリバリ食べさせられます(塩もありませんでした!)。

スープはジャガイモと調理用バナナ(プラタノ)と白身魚が入っているのですが、あっさりした塩味でおいしいです。

コロンビア料理は基本的に味付けが塩のみで、単調と言えば単調なのですが、食材の味を活かしていて私は好きです。ただ、好みが分かれるようで、ボゴタ在住15年になる日本人のAさん(仮名)は「コロンビア料理は大味で苦手」とおっしゃられております。

2枚目の写真のスープはシーフード・スープです。この店自慢のスープで、イカやタコ、エビなどの魚介をココナッツ・ミルクで煮込んだ濃厚な味わいで最高に美味です。いくらでもいける味です。ボゴタに来られる方は是非、ご賞味あれ。

3枚目はメインです。平べったい白身魚はスズキです。ボゴタでは魚と言えば冷凍がほとんどで、日本の鮮魚店のように新鮮な生の魚にお目にかかることはありませんが、この店では1階でノルウェー産の丸々と太った鮭が売られていました。

ご飯は日本の米と違い、パサパサしたインディカ米ですが、ほんのりと塩味が効いていておいしいです。隣の黄色いのは揚げバナナです。味はサツマイモの天ぷらの味なしバージョンみたいで、正直、これは甘くも何ともなく、あまりおいしくありません。

これだけでもかなりのボリュームで、私はもともと食べる速度が遅いのですが、全部平らげるのに1時間かかりました。周りのコロンビア人は大声で喋りながら食事を楽しんでいるのですが、たぶん100人くらいが一斉に同じ場所で食事をしているので、誰が何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。

レモネードが飲み放題なので、私は少し苦いレモネードで喉を潤しつつ、やっとの思いでランチを片付けたのでした。


黄金博物館


腹も膨れたのでボゴタ市内の観光に出発です。

ボゴタは歴史の古い街で、見どころは無数にあるのですが、何と言っても見ていただきたいのは「黄金博物館」です。

ボゴタ市中心部のセントロにある国立の博物館で、コロンビアで出土した先住民の黄金細工などが展示されています。

かつてコロンビアは「El Dorado(黄金郷)」伝説で湧いた土地でした。

16世紀の半ば、この地を征服したスペイン人たちは、地元のインディオが黄金色に光り輝く金の装飾品を身に着けているのを見て、「ここには金銀財宝がたくさん眠っているに違いない」と考えました。

実際にはそれほど黄金があったわけではないのですが、口コミでコロンビアの「黄金伝説」がヨーロッパに伝わり、目の色を変えてやってきた侵略者たちはインディオを迫害し、虐殺し、彼らの土地と財産を略奪していきました。

黄金博物館には、この時の略奪を免れた数少ない貴重な財宝が眠っているのですが、コロンビアでは今でも金が産出されており、ボゴタ周辺のアンデス山脈で金鉱石の採掘が行なわれています。

展示室の入り口には、コロンビアの先住民たちが金の採掘や加工に使った道具類が並べられています。


先住民の道具類


これはコロンビアの先住民が実際に使っていた金製の道具類です。

上のお面のようなものは部族の酋長が儀式の時などに身に着けていたもので、頭に飾ったり、鼻の穴に引っかけたり、腰や手足に着けたりして使っていました。

右下に見える小さな壺のようなものは「コカイン製造機」です。

インディオたちはアンデスに生えるコカの葉を集めて細かく刻み、この壺に入れ、貝殻の粉末と混ぜ合わせてコカインを作り、厳しい高地での生活に潤いを与えていました。

コカインと言えば悪名高い麻薬ですが、昔は医療用として普通に使われていました。

あの「コカ・コーラ」にもかつてはコカインが入っていましたし、かの名探偵シャーロック・ホームズもコカイン中毒という設定でした。

現在のコーラはコカインの代わりにカフェインを入れていますが、今でもコロンビアやボリビアの先住民はコカを栽培し、自分たちで食用や薬用として使っています。

コロンビアは一時期、麻薬カルテルの暗躍で恐れられた国ですが、先住民たちは西洋人がやってくるはるか前からコカインを使っていたのです。それは彼らの生活になくてはならないものでした。コカインを麻薬だ何だと言って厳しく取り締まるようになったのは最近のことです。

ボリビアではコカの栽培が合法ですが、アメリカ政府は麻薬撲滅という口実の下、コロンビアやボリビアのコカ畑に強力な除草剤を撒いて根こそぎ枯らそうとしています。

そのせいでアンデスの農民は自分たちの食べるイモやバナナまで枯らされてしまい、大変な被害を被っているのですが、アメリカの掲げる「正義」の前には無力です。

日本でも大麻はご法度ですが、大麻と言っても正体はただの麻の葉っぱです。中毒性もなく、むしろタバコやアルコールの方がはるかに有害なのですが、なぜか大麻はダメで、タバコや酒は野放しです。

何かおかしいと思うのは私だけではないはずです。取り締まるべきものはもっと他にあると思うのですが……。


先住民の装飾品


これも先住民の作った黄金の装飾品です。

キラキラと輝いてまぶしいくらいですが、コロンビアの先住民たちは高度な金細工の技術を持っていました。

黄金はそのままでは柔らかくてもろいので、銅との合金にして加工します。しかし、銅は腐食しやすいので、これまで残っている金細工のほとんどは青く腐食して輝きが失われています。

ここにあるのは奇跡的に盗難や流失から残った純金の装飾品です。今も輝きは失われていません。

中南米の先住民文化と言えば、メキシコのアステカ、グアテマラのマヤ、ペルーのインカなどが有名ですが、コロンビアではシヌー、タイロナ、ムイスカ、チブチャ、キンバヤなどの文明が栄え、特に金細工の技術力は最も完成度の高いものです。

中でもコロンビア中部で栄えたチブチャ族の文明は、南のペルーで栄えたインカ帝国にも匹敵するほどの高度なもので、今もコロンビアの各地に彼らの遺跡が遺されていて、それは目を見張るものがあります。


サン・アグスティン遺跡



これはサン・アグスティン遺跡の石像です。

サン・アグスティン遺跡は世界遺産に登録されているコロンビアの先住民の遺跡ですが、ボゴタからは飛行機で2時間、さらに車と馬を乗り継いで行かねばならず、まだ私も足を運んだことはありません。

残念ながら、黄金博物館内の写真で我慢していただくしかないのですが、いつか行ってみたいですね。

写真のようにイースター島のモアイのような、日本の土偶のような、奇妙な石像が林立しています。

征服者スペインによって荒らされてしまい、現在まで残っているものは大変貴重です。

南米の先住民はモンゴロイド系なので、我々日本人にも共通するところがあり、遺跡や装飾品を見ていると、どこか懐かしい感じがするのは私だけでしょうか。


黄金ジェット


昔、『黄金バット』という漫画がありましたね(ふ、古い……)。

これは「コロンビアの黄金ジェット」と呼ばれるものです。

黄金で作られたジェット機の模型のようなものですが、今から40年ほど前にシヌー文明(紀元500~800年に栄えた先住民文化)の遺跡から出土したものです。

近くで見てみると、確かに飛行機そっくりです。ちゃんと翼や垂直尾翼らしきものがついています。

このことから、コロンビアの先住民は飛行機を作る技術を持っていて、実際に黄金の飛行機で空を飛んでいたのではないか、という憶測が流れ、長いこと黄金ジェットはオーパーツ(場違いな加工品)として世界の謎とされてきました。

事実、アメリカの専門家は「航空力学にかなう形状をしている」と述べ、黄金ジェットそっくりの飛行機を作って飛ばしてみせました。

しかし、形がこの地でよく見かけるプレコというナマズに似ているため、現在では先住民がプレコを模って作った装飾品ではないか、との説が有力です。

でも、歴史にはロマンが必要というのが私の信条です。コロンビアはペルーの「ナスカの地上絵」にも距離が近いですから、もしかしたら古代コロンビアの先住民たちは黄金の飛行機で地上絵を見物に行っていたのかもしれません。


黄金の壺


これは先住民が儀式などで使っていた純金製の壺です。

デザインが洗練されていますね。現代でもじゅうぶんに通用する代物だと思います。

コロンビアの先住民は金細工の加工技術においてはほぼ完成されたレベルで、同じ南米でもペルーのインカ帝国の初期のものと比べてみて、明らかにコロンビアの方が完成度が高いです。

16世紀にこの地にやってきたスペインの征服者たちは、現在のパナマ地峡で地元のインディオが金の装飾品を身にまとっているのを見て、「この先にはきっと黄金の国がある!」と思い込み、コロンビアを征服していったのですが、ボゴタのあたりまでやってきて、彼らが見つけたのはわずかな金脈とエメラルドの鉱脈だけでした。

スペイン人が南米を征服して手に入れた黄金の量は、すべて合わせても8トン程度だったと言われています。

現代でも金は貴重品ですが、ここに残っているものは略奪や流出を免れたものばかりですから、もう値段もつけられないくらい価値の高いものです。


タイロナの黄金像


写真はコロンビアの先住民タイロナの文化が生み出した黄金の像です。

タイロナ文化は現在のラ・グアヒラ半島(カリブ海に突き出した砂漠の半島)のあたりに栄えた先住民の文化で、16世紀半ばにスペインによって征服されるまで、コロンビアの先住民文化では最も隆盛を誇りました。

タイロナ人はカシーケ(首長)の下でゆるやかな連邦制国家を築いており、計画的な都市建設、運河、貯水池を持ち、組織的な軍隊制度も持つ高度な文明を有していました。

中でも特筆すべきなのは彼らの金細工技術の高さです。複雑な形状のペンダントや、写真のような人形を数多く残しました。

コロンビアの先住民はおおむね温和でフレンドリーな民族だったようで、好戦的で捕虜の心臓を生贄として捧げていたメキシコのアステカ文明のような獰猛さはなく、みんな平和に穏やかに暮らしていたようです。

それだけにスペイン人に征服されるのも早く、彼らの末裔は今もアンデスの奥地で細々と独自の生活を営んでいますが、近年はゲリラや麻薬業者の脅威にさらされています。


黄金博物館内


黄金博物館の展示室です。

ここは最近改装されたばかりで、写真は昔からある貴重な財宝を展示している部屋なのですが、警備は厳しく、入り口は銀行の大金庫のような厳重な扉になっていて、室内では警備員が常に目を光らせています。

写真撮影はフラッシュを使わなければOKです。みんな真剣に展示品を見ていました。

新しい展示室の方はもっと明るくて、この日は地元の小学生たちが社会見学でやってきていて、楽しそうに先生の話に耳を傾けていました。

コロンビアに来た方は是非、一度は足を運んでみてください。


黄金の猫


すでに述べましたが、コロンビアでは猫の姿を目にする機会が少ないです。

犬はどこの通りにもいて、お使いを頼まれた大きな犬が買い物袋をくわえて走っていく微笑ましい光景に出くわしたりするのですが、猫はほとんど見かけません。

猫が女性の性病の原因になる、という偏見が根強く、ここではあまり猫が好まれないのです。猫好きの私には何とも残念な話です。

猫にとっては謂れのない差別でしかなく、コロンビアの猫ちゃんたちはさぞかし肩身の狭い思いをしていることでしょうが、猫は結構しぶとい動物ですから、そんなことはまったく気にしていないのかもしれません。

コロンビアでは不人気な猫ですが、コロンビアの先住民たちは猫が好きだったのか、黄金博物館に純金製の猫がいました。

と言っても、これはネコ科の猛獣「ジャガー」なのですが、どことなく可愛らしいとは思いませんか?

私などはどう見ても日向ぼっこを楽しむ普通の猫ちゃんにしか見えないのですが、こういうところもコロンビア的な大らかさなのかもしれません。


セントロの露店


ボゴタのセントロ(旧市街)を歩いてみましょう。

なんかいい匂いが漂ってきました。写真は軽食の露店です。

コロンビアではどこの街でもこうした露店が立ち並んでいますが、このお店ではチョリソー(豚の腸詰め)を軒下に吊るして売っていました。

右手に見える鍋ではバナナを油で揚げています。香ばしい匂いが食欲をそそります。

左手の鉄板の上に並んでいるのはアレパ(トウモロコシのパン)です。コロンビアでは定番の料理です。


セントロの広場


ここはヒメネス通りの近くにあるプラザ(広場)です。

この日は天気が悪く、今にも雨が降ってきそうでしたが、事実、この30分くらい後に豪雨になりました。

コロンビアは町の至る所にこういう広場があり、市民の憩いの場になっているのですが、この日も雲行きが怪しいのに傘を差して座り込んでいる人が大勢いました。

日本では「治安の悪い国」程度のイメージしかないコロンビアですが、ボゴタに限って言えば、本当に身の危険を感じるようなことはありません。

ただ、貧富の格差が激しく、ボゴタでもあちこちで物乞いの人を見かけます。親子でスーパーマーケットや教会の入り口に座っていて、お金や食べ物を求めてくる人もいます。

そういうところはコロンビアの「暗部」なのでしょうが、この国は少しずつではありますが、治安も格段に良くなってきているし、経済も成長し続けています。

何よりも特筆すべきなのは、コロンビア独自の社会主義制度とも言うべき「エストラト制度」です。

これは地区の住民を1~6段階に分け、所得に応じて様々な特典を与えるというものです。たとえば、レベル1や2の低所得者の住む地域の住民には、税金を免除したり、教育・医療は無償、生活用品も安くなるなどの優遇措置が課せられるのです。

レベルが5~6の地区の人は高額所得者ですが、彼らの払う税金でレベルの低い地区の人々の生活を支える、という仕組みです。

たくさん稼いでいる人が貧しい人を助ける、という発想ですが、これはキリスト教の人道主義や友愛主義の思想の影響もあるのでしょう。

「コロンビアは社会主義国か?」と勘違いしそうなほどの手厚い社会保障制度なのですが、コロンビアは近年の経済成長で着実に豊かな国民が増えており、明らかに「低所得層」ではないにも関わらず、そのままレベルの低い地区に住みながらエストラト制度の恩恵を受けている人もいます。

私などは「ずるいじゃないか」と思うのですが、コロンビアでは不思議とこの制度を見直そうという動きはありません。日本で同じことをやったら富裕層が反発しそうなものですが、そこはコロンビア的大らかさと言うか、誰も気にしないようです。

凶悪な犯罪も多いし、貧しい人は本当に貧しいのですが、一方で社会主義的な政策があり、施しの精神があり、豊かになる国民も増えています。

コロンビアは今、大いなる矛盾を抱えながら、明るい未来に向かって力強く邁進している――。日本人の私はそんな印象を受けました。


ボゴタ最古の病院


これはボゴタ最古の病院「サン・ペドロ病院」の壁に描かれた説明文です。

1564年創設ですから、今から440年以上前です。日本は戦国時代ですね。いかに古いかお分かりいただけると思います。

ボゴタにはこの他にも歴史的な建造物が数多くあります。

標高が高く酸素が薄いため火事の心配がほとんどないことと、記録上、大きな地震がないため、築400年という日本では信じられないほど古い建物が多いのです。

セントロはこうした歴史の重みを感じさせる古い街並みが広がっているのですが、すぐそばには近代的な高層ビルが立ち並ぶオフィス街があり、古いものと新しいものがバランスよくミックスされています。


セントロの通り


これはセントロの通りです。

スペイン統治時代から時間が止まってしまったかのような錯覚を覚える通りですが、車道をよく見てください。幅が狭いですね。これは馬車が走っていた時代に作られた舗装道路なので、道幅もそれに合わせて作られているのです。

排水溝のない道が多いので、雨が降ると泥沼化してしまうところも多いのですが、コロンビア人はあまり気にしないようです。

私などは「なんで、最初から排水溝を作らないんだ?」と思うのですが、コロンビアでは誰もそんなことを気にしていないので、私も「郷に入りては郷に従え」で気にしなくなりました。

コロンビアは「矛盾の国」と言われます。国民性は真面目で勤勉なのに、非常にアバウトなところがあったり、雨が降ることが分かっているのに道に排水溝を作らなかったり、ラテン系なのにシエスタ(昼寝)の習慣はなく、朝から晩までがむしゃらに働いています。

ボゴタに限って言えばせっかちな人が多いのですが、基本的に性格はおっとりしていて、大らかな人が多いのが特徴です。

このあたりは今にも崩れ落ちそうな家(と言うか、ほとんど半壊しています)が多いのですが、建て直そうとか、街を近代化しよう、といった日本人的な発想はなく、「ええんじゃ、ええんじゃ。このままでええんじゃ」みたいなコロンビア的なところが私は好きです。


旧大統領官邸とコロン劇場



1枚目の写真は「旧大統領官邸」です。

ずっと昔はここがコロンビア大統領の邸宅でした。外国の来賓もここに泊まりました。

2枚目の写真は「国立コロン劇場」です。非常に由緒のある古い劇場です。大統領官邸の正面にあります。

昔は大統領官邸で国賓をもてなした後、正面のコロン劇場で観劇する、というのが定番でした。劇場の中は歴史を感じさせる重厚な造りなのですが、あいにくこの日は休館日でした。


童話作家ポンボの生家



写真はラファエル・ポンボ(1833~1912)というコロンビアの童話作家の生家です。コロン劇場の近くにあります。

大きなぬいぐるみが置かれてあって、いかにも子供が好きそうですね。私は彼の作品を読んだことはありませんが、コロンビアでは結構人気の作家だったようです。

関係ないのですが、ここでは子供の頭を撫でたり、保護者の同意なしに子供の写真を撮ったりすると誘拐犯に間違われることもあるので注意が必要です。

それだけ子供が誘拐や性犯罪の標的になりやすいということなのでしょうが、コロンビアの治安が悪いとされる理由のひとつに刑罰の甘さがあると思います。

コロンビアには死刑制度はなく、最高でも30年の懲役刑が科されるだけです。

1999年、ルイス・ガラビートという男が警察に捕まり、子供ら140人以上を誘拐した上でレイプし殺害していたことを自白して、コロンビア社会に衝撃を与えました。

ガラビートは法定刑の上限である30年の刑になるとみられていましたが、捜査に協力的だったことから減刑され、判決は懲役22年でした。

140人も殺しておいて22年の刑は軽すぎると思いますが、ガラビートは獄中での服役態度によっては数年で仮釈放の可能性もあり、さすがに殺人事件には慣れっこのコロンビア人も憤慨し、死刑の復活や終身刑の導入を求める声が上がりました。

死刑制度については賛否両論あると思いますが、やはり何人殺しても死刑にならないのでは犯罪抑止にならないと思います。


陸軍博物館


これはボゴタの「陸軍博物館」です。

コロンビアの軍事に関する歴史や展示品を紹介しています。入り口には武装した兵士が立っていて、持ち物は検査されます。

コロンビアでは結構いろんなところで手荷物検査や身体検査を受けることがあります。コロンビアの警察官は日本の警察と違い、少しもためらわずに銃を発砲してきますから、もし呼び止められても下手に抵抗せずに従うようにしてください。命あっての物種ですから。

ただ、コロンビアという国の持つ「空気」というものはどことなくふんわりしていて、まったく緊張感を感じさせません。

日本ではゲリラとか麻薬とか誘拐とか内戦とか危険なイメージの報道しかしない国なので、そのギャップが凄いのですが、少なくともボゴタに限ってはピリピリした空気はまったくありません。

私が昔行ったメキシコは街全体に殺伐とした空気が漂っていましたが、ここコロンビアにはそれが全然ないのです。

現地に来てみれば分かりますが、私はコロンビアの持つギャップと、国全体に漂う柔らかい雰囲気が好きです。


ボリーバル広場





さあ、いよいよボゴタ中心部のプラザ・デ・ボリーバル(ボリーバル広場)にやってきました。

ここはコロンビアを象徴する場所で、表玄関とも言うべき重要なところです。たいていの旅行書にはボリーバル広場の写真が載っています。

1枚目の写真に見える古めかしい教会は「ラ・カテドラル(教会)」と呼ばれ、南北アメリカで最も美しい教会と言われています。

教会の前にある小さな銅像が南米独立の父シモン・ボリーバルの像です。隣の塔はクリスマスの巨大なツリーで、気の早いコロンビア人はクリスマスの1ヵ月以上も前から準備に躍起になっていました。

広場に面して3つの重要な施設があります。まず、2枚目の写真ですが、これは国会議事堂です。この日は議会の開催中で、隣接する議員会館では議員たちが忙しそうにしていました。

3枚目の写真は最高裁判所です。法務省のビルと一体になっています。後述しますが、ここでは昔、テロリストによる人質事件が起こり、激しい銃撃戦の様子が世界中にテレビ中継されました。

4枚目はボゴタの市庁舎です。ボリーバル広場を囲むように、官公庁の重要施設が立ち並んでいます。

この日は晴れたり曇ったりで、午後には雨も降ったのですが、暑くも寒くもなく、絶好の散歩日和でした。


ボゴタのランチ



さて、歩き疲れて腹も減ったので昼食にしますか。

これはボリーバル広場近くの裏通りにある庶民的なレストランですが、なかなかのお味です。

前菜のスープはジャガイモとプラタノ(料理用バナナ)が入っています。ニンジンのようなものがプラタノです。ほんのりと甘みがあります。

小皿に入っているのは香草入りの調味油です。好みでスープに入れたり、肉料理や付け合わせの野菜類にかけたりして食べます。

コロンビア料理は味付けが基本的に塩のみで、味噌や醤油の濃い味付けに慣れている日本人からすればちょっと物足りなさを感じることもあるのですが、ボゴタは高地で酸素が薄いせいか平地よりも疲労が激しく、じっとしていてもすぐに空腹を感じるのでなんでもおいしくいただけます。

コロンビアの人は強烈な甘党が多く、デザートには必ず口がヒン曲がりそうなくらい甘々のスイーツが出てくるのですが、これも高地で体力の消耗が激しいので、おのずと体が甘いものを欲しがるせいでしょう。

飲み物は生のイチゴジュース、デザートはバナナのケーキで、どちらもやたらと甘かったです。

メインの肉料理は牛肉をトマトソースで煮込んだものです。ここでは肉と言えば脂身のない赤身の肉が主流で、ボゴタ郊外の農村地帯では牧畜が盛んなのですが、食用の牛はなぜか背中にコブのある痩せた牛です。肉は硬くなく、柔らかくて食べやすいです。

ライスは少し水気が多くてベチャベチャしているのですが、タイ米のような臭みがなくて、日本人の口に合うと思います。もっとも、これは私の主観なので、一概には言えませんが……。

コロンビアは水資源の豊富な国で、稲作も盛んなのですが、日本が戦後の食糧難の時にコロンビアが米を送ってくれた国であることはあまり知られていません。

コロンビアの日系人はブラジルやペルーに比べて少ないのですが、それでも戦前は福岡県から南部のカリという町に集団で移住し、今もカリ近郊のパルミラというところに日系人のコロニーがあり、2千人ほどの日系人の方が暮らしています。

コロンビアは肥沃な土壌と豊富な資源に恵まれた国で、コロンビアの日系人は南米の移民では最も成功したケースと言われています。

「地球上で人類が抱える問題を独自に解決できる国はコロンビアとブラジルくらいのもの」と言われるほど資源に恵まれ、気候が温暖で、国民性も真面目で勤勉な国ですから、内戦が終われば、この国の将来は明るいものになるでしょう。


ナリーニョ宮殿(大統領府)


写真はカーサ・デ・ナリーニョ(ナリーニョ宮殿)です。

これはコロンビア独立の父アントニオ・ナリーニョ(1765~1823)の生家で、1908年からコロンビア大統領の官邸として使われています。

宮殿内には豪華なタペストリーや、南米最古の天文台もあるのですが、ここは大統領のいる場所ということもあって警戒は厳重で、宮殿の横は歩けますが常に兵士が目を光らせていて、歩行者は手荷物検査を受けます。

この日は大統領は不在でした。なので、警戒中の兵士もどこかのんびりしていました。宮殿内の駐車場には大統領専用の救急車が停まっているのですが、この日はそれが見えなかったので、大統領はどこかに行っていることが分かります。

写真撮影は特に問題はないようですが、あまり写真を撮ってばかりいると怪しまれます。最悪の場合は身柄拘束、カメラの没収もあり得るので注意してください。

写真は宮殿の裏側です。左手の道をテクテク歩いていくと正面側に出ます。正門には19世紀の独立戦争当時の格好をした衛兵が立っていて、交代式では200人もの衛兵が整然と行進する光景は圧巻です。


サンバルトロメ学院


写真は大統領府のすぐそばにあるボゴタの名門校「コレヒオ・マヨール・デ・サンバルトロメ学院」です。

ここはコロンビアでも特に古い由緒のある学校なのですが、コロンビアの初代副大統領であるフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍の母校として有名です。

サンタンデール将軍はボゴタの出身ではありませんが、彼は13歳でこの学校に入り、法学を修めた秀才でした。

コロンビアは南米で最も古い民主主義国家と言われます。中南米では当たり前のように繰り返されたクーデターや独裁がほとんどなく、19世紀の独立以来、約200年にわたって一貫して民主体制が維持されてきたという珍しい国です。

これはコロンビアが山がちの地形で、中央政府の支配力が地方に及びにくかったために強力な独裁者が現われなかったという地勢的条件もあるのですが、何よりも重要なのは、サンタンデール将軍が「法による支配」の確立を目指し、その後の民主主義統治の礎を築いたという点です。

コロンビアでは大統領の任期は4年で、再選は1回だけと憲法で決まっているため、歴史上、独裁的な大統領というのがいません。

内戦で国情が不安定なのは19世紀以来の「伝統」でもあるのですが、コロンビアは不思議とクーデターや軍事政権といったものが登場することはなく、基本的に自由党と保守党の二大政党制の下で政権交代を繰り返してきました。

これは政情不安の南米では極めて珍しいことなのですが、民主主義の伝統を持ち、真面目な国民性ということもあって、コロンビアは昔から政治的には安定しています。


サン・アグスティン教会


写真は「サン・アグスティン教会」です。ボゴタで最も古い教会です。

16世紀半ばにスペインがこの地を征服し、まず最初に作ったのは教会です。侵略者たちは「ランス(槍)と聖書を持って」現われ、先住民インディオを虐殺しながら、彼らをキリスト教に改宗させ、効率的に植民地支配に取り込んでいったのでした。

スペインの植民地当局は、広大な南米を統治するために、「エンコミエンダ制」という独自の方法を採ります。

これは宣教師を地方に派遣し、そこのインディオたちを改宗させておいて、彼らを保護する代わりに税金や労働力を徴収してもよい、という制度です。

保護と言えば聞こえはいいですが、実態は奴隷制度です。コロンビアはカトリックの国ですが、教会は非常に大きな権力を持っていて、独立後も全土の3分の1は教会の領地で、農民やインディオは奴隷と何ら変わりませんでした。

独立戦争を指導したシモン・ボリーバルは、カトリックを国をまとめるための手段として教会を保護しますが、ボリーバルの側近だったサンタンデール将軍は教会から権力を取り上げ、「政教分離」という今日の先進国では当たり前の体制を目指そうとします。

この両者の対立が、その後のコロンビア内戦の下地にもなっているわけですが、自由党がサンタンデール派、保守党がボリーバル派とされています。

コロンビアでは都市から農村まで自由党と保守党で二分化され、どちらの政党に属するかで対立と衝突を繰り返してきたのですが、どんなに内戦が激しくなっても国が分裂することはなく、適当なところで妥協して国をまとめてきたのはコロンビア的と言うか、さすがだなと思います。

それはともかく、教会というものは暗い血塗られた歴史の遺物でもあるのですが、400年の風雪に耐えてきただけあって侵しがたい風格があります。

コロンビアはカトリックの国ですが、国民はさほど敬虔なクリスチャンというわけではなく、日曜日にもなれば家族で教会に行ってお祈りをするような熱心な信者は少ないようです。


教会の内部


これはサン・アグスティン教会の内部。

この日は平日でしたが、熱心な信者が来てお祈りをしていました。

見事な内装に目を奪われますが、奥の祭壇?のキンキラはメッキです。純金は使っていません。たぶん……。

この教会が作られたのは日本の戦国時代。まだ信長や秀吉が活躍していた時代ですが、ボゴタは地震もなく火災も少ないので、こういう歴史の古い建物が普通にあちこちに残っています。

地震大国の日本から見れば、なんともうらやましい限りですね。


教会の外壁


これは教会の外壁。

歴史を感じますね。日本だったらとっくに地震で崩れていそうな石造りの建物ですが、ここは大地震がないので当たり前に残っています。

これで築400年以上ですよ!信じられますか?

私もスペイン統治時代のコロンビアにタイムスリップした気持ちで散策を楽しんだのでした。


サンタ・クララ教会


これはサンタ・クララ教会という古い教会の壁です。

これも17世紀の初めごろに建てられたものですから、370年以上経っていますが、そのままの形で残っています。

壁を見ていただければ分かると思いますが、ただレンガを積み上げてセメントで固めたものです。

コロンビアの建物は、だいたいこんな感じなのですが、地震がないから何百年も普通に残っているのです。

私が昔いたイタリアのローマもそうでしたが、日本なら国宝級の歴史的な建造物に当たり前に人が住んでいるのです。


ボゴタの土産物屋


ところ変わって、ここはボゴタ随一の土産物屋通りです。

古めかしいお店が立ち並び、骨董品や民芸品や民族衣装などが所狭しと並べられて売られています。

南米は北米と違い、先住民を迫害・虐殺はしても、彼らの文化を北米のように徹底的に抹殺・排除することなく吸収・同化していったので、今もあちこちに先住民文化の名残が残っています。

特にコロンビアは南米でも混血率が最も高い国ですが、白人系なのに東洋系のような顔立ちの人もいて、「ああ、この人の先祖はモンゴロイドの先住民だったのだな」と感じることがあります。

北米ではインディアンは「絶滅対象」であり、南米のように積極的に混血化することなく、白人は白人だけで固まって暮らし、インディアンを狭い居留地に押し込めて根絶やしにしていったわけですが、南米ではそういうことがありませんでした。

南米は北米のような人種差別も少ないのですが、スペインの征服者たちはよく見知らぬ土地にやってきて、何の抵抗もなく原住民と結婚して子孫を残せたと思います。

日本でもハーフに美人が多いように、コロンビアに美男美女が多いのも混血が多いからで、異質な文化を排除せずに取り込んでいったところにコロンビア的な大らかさを感じずにはいられません。


コロンビア最高裁


またボリーバル広場に戻ってきました。

これは先程も少し紹介しましたが、ボゴタの最高裁判所兼法務省ビル(Palacio de Justicia 通称:正義宮殿)です。

年配の方はご記憶にあるかと思いますが、ここは悲劇の場所でもあります。

1985年11月6日、ボゴタの最高裁を左翼ゲリラ「4月19日運動(M19)」のコマンド35名が襲撃、ベリサリオ・ベタンクール大統領(当時)との「和平のための直接交渉」を要求し、最高裁にいた国会議員や判事、市民ら500人以上を人質に取って立てこもりました。

アルフォンソ・レイエス最高裁長官の攻撃中止要請にも関わらず、コロンビア政府はゲリラとの交渉を拒否して武力解決を図り、戦車まで繰り出しての28時間にもわたる激しい銃撃戦の末に政府軍部隊が突入。

ゲリラ・メンバー35人は全員殺害され、最高裁は制圧されたのですが、作戦の過程で最高裁長官と判事11人、市民60人を含む人質115人が犠牲になりました。

この事件では当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった麻薬密売組織「メデジン・カルテル」の最高幹部パブロ・エスコバルが、自身の身柄をアメリカ当局に引き渡そうとするコロンビア政府と対立し、これを阻止するためにゲリラと裏取引し、最高裁長官の暗殺と麻薬関連書類の焼却を依頼していたことが分かっています。

戦闘の様子はテレビで世界中に中継され、日本でも大きく報じられましたが、一国の法の権威である最高裁が反逆者に襲われ、炎上して瓦解するシーンは強い衝撃を与えたものです。

余談ですが、M19は事件の約5年前の1980年2月27日、ボゴタのドミニカ共和国大使館を襲撃・占拠し、ドミニカ独立記念日のパーティーに出席していたアメリカやエジプトなどの各国大使ら52人を人質に取り、政治犯の釈放を要求する事件を起こしています。

これは1975年8月に日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールの米国・スウェーデン両大使館を占拠し、米大使らを人質に「あさま山荘事件」で逮捕された同志たちの釈放を要求、日本政府が「超法規的措置」で要求に応じた事件を参考にしたと言われています。

当初、M19はボゴタの日本大使館を占拠する計画を立てていましたが、当時の日本大使館は高層ビルの最上階にあり、長期の籠城には不向きと判断。平屋建てのドミニカ大使館を狙ったのです。

この事件ではコロンビア政府が政治犯の釈放と犯行グループのキューバ出国を認め、発生から61日後に1人の犠牲者も出すことなく解決しましたが、この時の犯人グループがひそかにコロンビアに帰国し、最高裁占拠事件を起こしたのでした。

ちなみに1996年12月に発生した在ペルー日本大使公邸人質事件で、犯行グループの「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」はM19の「弟分」のような組織であり、ドミニカ事件の再来を狙ってあの事件を引き起こしたと言われています。

最高裁占拠事件から今年で26年の歳月が流れ、今やコロンビアは劇的な治安の改善で、もはやゲリラも麻薬カルテルも見る影もなく姿を消しました。ボゴタはまったくの平和で、無数の鳩たちがそれを物語っているかのようです。

現在の最高裁は事件後に再建されたものです。26年前の惨劇が夢のように、大勢の市民たちでにぎわっていました。


シモン・ボリーバル像



最高裁を見下ろすように静かにたたずんでいるのがシモン・ボリーバルの銅像です。

ボリーバルは、南米のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアの5ヵ国をスペインの支配から解放し、南米では「El Libertador(解放者)」と呼ばれ、どこの国にも彼の像と彼の名前を冠した地名があります。

ボリーバルはベネズエラの出身ですが、独立後の諸国をまとめて「大コロンビア」というひとつの巨大な国家を築き、その大統領に就任したため、実質的にコロンビアの初代大統領はボリーバルです。

南米を統一するというボリーバルの壮大な夢も、晩年はかつての同志たちの裏切りに直面して夢破れ、赤貧の中で世を去っていったボリーバルですが、今でもボリーバルはたいへんな人気があります。

この日は近くで工事をやっていて、近付いて撮影することが出来なかったので、裏側と少し離れて正面から撮りました。

それにしても鳩が多いですね。日本のように餌付けを禁止する法令もないし、駆除しようともしないので、人間より鳩の方が多いくらいですが、これもコロンビア的な光景でしょう。


国会議事堂



こちらは国会議事堂の正面です。

中庭にはやはり解放者ボリーバルの銅像が立っていますね。

コロンビアでは今年、政府の教育改革法案に反対する学生のデモが激化していて、大学の民営化と授業料の値上げに反発するデモ隊が警官隊と衝突しています。

この写真を撮った数日前にも大きなデモがあり、学生集団がペンキの入った袋を投げつけて抗議したので、議事堂のあちこちにその跡が残っていました。

建物の上から垂れ下がっているカーテンのようなものは、ペイント弾攻撃を防ぐためのものです。

コロンビアは昔から教育に力を入れてきた国で、国民の識字率はほぼ100%近いのですが、授業料が上がると学校に通えない人もいますから、学生たちが憤慨するのも分かるような気がします。

日本でも昔は学生運動が盛んでしたが、国民が豊かになるとすっかり姿を消してしまいました。

テロも暴動も起こらない日本は平和でいいのかもしれませんが、いつの時代も世の中を動かしてきたのは若い世代です。コロンビアが長いスペインの支配から独立を果たした時、初代大統領ボリーバルは36歳、副大統領のサンタンデール将軍は27歳という若さです。

コロンビア人は自分たちで自由を勝ち取ったという歴史を誇りにしているので、愛国心が強く、何かあるとすぐに団結して行動を起こします。日本人は戦後の自由も民主主義も占領軍アメリカから与えられたものなので、イマイチ政治に疎く、愛国心も薄いのかもしれません。

まあ、何でもすぐに暴力に訴えるのはどうかと思いますが、日本人のようにあまりにも大人しすぎるのも問題だと思いますね。

ちなみに、ボゴタの街は落書きが多いですが、これは落書き行為を取り締まる法律がないためです。

落書きはコロンビアでも社会問題になっているのですが、そこはコロンビア人気質と言いますか、なかなか国が動かず、法律も出来ないため、いつまでも野放しにされています。

団結力も行動力もあるのに、変化のスピードは遅く、国民性は真面目で勤勉なのにアバウト、大らかで現状に不満を感じないという矛盾したところがコロンビア人の特徴です。


ヒメネス通り


ヒメネス通りにやってきました。ここではエメラルド原石の取引が行なわれています。

コロンビアと言えば「コーヒー」を連想する方が多いと思いますが、コーヒー豆と並んでコロンビアを代表するものがエメラルドです。

コロンビアはエメラルドの産出量が世界一で、ボゴタ郊外にあるムソー、チボール、コスクエスマインの三大鉱山が有名です。

コロンビアのエメラルド取引を一手に仕切っているのが、早田英志さんという日本人です。早田さんは1970年代前半、たったひとりでコロンビアにやってきて、無法状態だったエメラルド鉱山に乗り込み、一代で巨万の富を築いたという武勇伝の持ち主です。

通りいっぱいに並んでいるおっさんたちは「エスメラルデーロ」と呼ばれるエメラルド商人です。鉱山から掘り出されたばかりの原石を買い付け、加工業者に渡して、あの深い緑色の神秘的な宝石が生まれるのです。

コロンビアに来たお土産にエメラルドを買っていく人も多いのですが、信用のおける専門店でお買い求めになることをお勧めします。素人だとガラスを染めただけの偽物をつかまされます。100ドル以上払わないと、いいものは買えません。

この通りには「エル・ティエンポ」というコロンビア最大の発行部数を誇る大手新聞社の本社ビルもあり、ボゴタ随一の目抜き通りになっています。

治安の悪い時期はここでも銃撃戦や爆弾テロが日常茶飯だったのですが、今は安全そのもので、銃声一発聞こえてきません。代わってボゴタ市民のパワフルな経済活動を目にすることが出来ます。


サンフランシスコ教会



サンフランシスコ教会です。これも古い教会です。ヒメネス通りに面しています。

私は宗教に関心はありませんが、日本でも寺社仏閣を見るのは好きなので、ボゴタのように歴史の古い街の教会を見物するのは好きです。

特にこの教会は派手な装飾がなく、落ち着いた雰囲気なので好きなのですが、これもおそらく16世紀の後半ごろの造りです。400年という時間の重みを感じます。

この日は信者は少なかったのですが、2枚目の写真の祭壇のようなところで司祭?のような人が説教をしていました。

出口のところには物乞いの人がいて、コロンビアの貧困を目の当たりにするのですが、同じ貧困でも私が昔メキシコで見たような悲壮感はなく、どことなくのんびりしているのはいかにもコロンビアらしいです。

タクシーに乗っていると、インディオらしき人が手にプラスチックのコップを持ち、お金をねだってくるのですが、いったん同情心に負けてお金を恵んでしまうと、それを見た他の物乞いの人たちがぞろぞろ集まってきて収拾がつかなくなることがあります。

ボランティア活動で来た人でもない限り、中途半端な同情はかえって残酷なので、安易な気持ちで施しをするのは避けた方が無難です。


コロンビアの紙幣 その1


写真はコロンビアのお札です。

コロンビアの通貨はスペインやメキシコやフィリピンと同じ「ペソ」です。

20、50、100、200、500ペソの硬貨と、1000、2000、5000、10000、20000、50000ペソの紙幣があります。

だいたい1米ドル=2000コロンビア・ペソです。コロンビアは南米では物価の安い国なのですが、前述の「エストラト制度」で住む地区によって物価が異なります。

たとえば、スーパーで同じ品物を買うにしても、低所得者層の多い地域では安いのですが、中流以上の地区では高かったりします。

私は外国に行くと、その国の紙幣の「顔」である人物を調べるのが好きなのですが、コロンビアでは独立戦争の英雄たちや、国民に人気のあった政治家が多いです。

写真は1000コロンビア・ペソ札ですが、描かれているのはホルヘ・エリエセル・ガイタン(1898~1948)というコロンビアの政治家です。

ガイタンは弁護士出身の自由党の有力議員で、1929年にカリブ海沿岸のシエナガという町で起きたバナナ農園の労働者のストライキと弾圧事件(死者千人以上とも)で政府を激しく攻撃し、一躍、貧しいコロンビアの庶民の英雄になった人物です。

南米ではアルゼンチンのフアン・ペロン大統領のように一般大衆の圧倒的な支持を背景に権力を掌握し、ポプリスモ(人民主義)を掲げて改革を行なった政治家が多いのですが、コロンビアでは民主主義統治の原則が維持されてきた反面、富裕層以外は政治参加を阻まれてきたため、他の南米諸国のような革命が起こりませんでした。

ガイタンはそんなコロンビアの体制に挑戦した革命家であり、自由党政権下では閣僚を歴任したりして、非常に影響力のある有能な政治家でした。「大統領に最も近い男」として庶民の期待も大きかったのです。

しかし、次期大統領選挙での当選が確実視されていた矢先の1948年4月9日、ガイタンはボゴタで暗殺されてしまいます。犯人のフアン・ロア・シエラという青年も、その場で激昂した群衆に殴り殺されてしまい、犯行の動機や背後関係は永遠に闇の中に葬られてしまいました。

事件の真相は今も不明のままですが、ガイタンの暗殺をきっかけにボゴタでは「ボゴターソ(ボゴタ大暴動)」と呼ばれる暴動が起こり、コロンビアはその後、10年にもわたる内戦「ラ・ビオレンシア(暴力の時代)」を迎えるのです。

歴史に「もし」は禁物ですが、もしもガイタンが生きて大統領になっていたなら、コロンビアは血みどろの内戦に陥ることもなく、民主的な改革に成功していたかもしれません。

そう考えるととても残念なのですが、ガイタンは今も紙幣の顔となって国民に愛されています。


コロンビアの紙幣 その2


こちらは2000コロンビア・ペソ札と10000コロンビア・ペソ札です。

10000コロンビア・ペソ札に描かれている女性は、ポリカルパ・サラバリエダ(1795?~1817)という革命家です。別名「コロンビアのジャンヌ・ダルク」。

彼女は19世紀の独立戦争の最中、独立軍に協力した罪で処刑された悲劇のヒロインです。

2000コロンビア・ペソ札はコロンビアの初代副大統領フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍(1792~1840)です。

将軍は南米独立の父シモン・ボリーバル(1783~1830)の盟友であり、側近中の側近として活躍した独立の闘士ですが、コロンビアには彼らの名前を冠した地名があちこちにあります。

ボゴタにはボリーバル広場があり、カリブ海に面した港湾都市カルタヘナはボリーバル県の県庁所在地です。サンタンデール県やノルテ・デ・サンタンデール県といった地名もあります。

コロンビアをはじめとする南米諸国は19世紀の初めに独立を勝ち取りましたが、これは日本で明治維新が起こる半世紀も前のことです。

ボリーバルもサンタンデールも国民的英雄であり、コロンビア人は彼らを誇りにしていますが、さしずめ日本では明治維新の立役者である勝海舟や坂本龍馬や西郷隆盛や大久保利通のような人物でしょう。


ボゴタの曇り空




今日のボゴタは朝から曇りです。

ボゴタは山の中にあるので、晴れていても急に曇ってきて大雨が降ったり、雷鳴がとどろいたりするので油断は出来ません。

特に今は雨季なので、ほとんど毎日のように雨が降ります。

ただ、ここは赤道間近の熱帯地方にあるため、どんなに気温が下がっても雪が降ることはなく、年中日本の春か秋のようで過ごしやすいです。

ボゴタは空を見上げると雲が近くて、手を伸ばせばつかめそうな感じなのが好きです。

曇り空が似合う町なんてあまりないと思いますが、私は雲の似合うボゴタの空が好きですね。


ボゴタのラッシュ


ボゴタの朝のラッシュ時の光景です。

コロンビア人は朝早くから夜遅くまで働いています。

朝はまだ暗い5時くらいから交通量が増え始めるのですが、だいたい7時から8時ごろにラッシュのピークを迎えます。

道路はどこもすごく渋滞するのですが、ボゴタには鉄道網がないため、市民の足は自家用車かタクシーかバスしかありません。

交通渋滞を解消するため、ボゴタ市は2000年から「トランス・ミレニオ」という赤い連結式の大型バスを導入したのですが、一向に渋滞はなくなりません。

何しろボゴタだけで800万人近い人々が暮らしているわけですから、移動手段に電車がないというのは致命的です。

昔は路面電車が走っていたのですが、ボゴタはもともと行政上の首都というだけで、かつてコロンビア経済の中心地はもっと標高の低い西部のメデジンという大都市でしたから、ボゴタは近年の急速な都市化と近代化による人口増加にまったく追いついていないのです。

富裕層は自分の車を持っていますが、庶民の足と言えばもっぱらバスとタクシーです。

よく晴れた日の朝は空気が埃っぽくて、排ガスもひどいのですが、ボゴタは高地だけに酸素が薄くて不完全燃焼を起こしやすく、また車もメンテナンスされていないことが多いので、真っ黒な煙を吐き出しながら走っています。

メキシコの首都メキシコシティも標高2300メートルの盆地にあり、大気汚染のひどさで有名ですが、ボゴタはメキシコシティより高いところにあるにも関わらず、とても大きな盆地にあるため汚れた空気が町の中に溜まらず、メキシコのようなひどいことにならないのが救いです。

ガソリンと排ガスが混じったような独特の匂いがボゴタの朝の風物詩です。


モンセラーテの丘


さて、私は「モンセラーテの丘」にやってきました。

コロンビアの人たちは「丘」と呼んでいますが、頂上は標高3千メートルをゆうに超しているので、どう見ても立派な「山」だと思うのですが、ボゴタが標高2600メートルの高原にあるため、ちょっと丘に登るだけでそれほどの高さになってしまうのです。

ここはノルテ(市北部)から車で20分ほどのところにありますが、途中の山道はかなりの急斜面でクネクネと曲がりくねっているので、まるで日光の「いろは坂」のようでスリリングです。

コロンビアのドライバーは基本的に運転が荒っぽいので、私もタクシーに乗っていると、本当にこんな運転手に自分の命を預けてしまってもよいのだろうか、と不安になることがあります。

この日も丘の手前の交差点で追突事故が起きていて、とんでもなく渋滞しているので、タクシーを降りて丘まで歩いていきました。

日本ならすぐに警察が来て、レッカー車で車を移動させてしまうところですが、ここでは警察の調べにえらく時間がかかるのと、お互いに非を認めずにいつまでも口論しているので、事故が片付くのを待っていたら日が暮れてしまいます(笑)。

モンセラーテの丘にはケーブルカーとロープウェーで登れますが、専用の登山道は途中で崖が崩れていて、危ないため今は入れません。

ケーブルカーはかなりの急勾配をずんずん登っていくのですが、最近、自分が高所恐怖症であることに気付いた私は怖くて写真を撮ることが出来ませんでした(汗)。

写真は頂上付近の教会です。スペイン統治時代に造られたものですが、重機も何もなかった時代に大変な工事だったろうと思います。


モンセラーテからボゴタを望む



ケーブルカーを降りて、しばらく石畳の登山道を歩いていくと、目の前にボゴタの壮大な景色が広がります。

この日は雨季でも奇跡的に晴天に恵まれ、まるで私にボゴタの絶景を撮ってくれと言わんばかりの天気でしたので、遠慮なく街の遠景をカメラに収めました。

こうして見るとボゴタがいかに広大な盆地の中に広がる大都市かがお分かりいただけると思います。

1枚目の写真はモンセラーテの丘からボゴタ市北部を写したものです。

眼下には高層ビルが立ち並ぶオフィス街が広がっています。

ボゴタはその昔、広大な沼地にあったため地盤が軟弱で、あまり高い建物は建てられないそうです。

歴史上、大きな地震がないため、それでも簡単な構造の建物でもいいわけですが、たぶん震度5強くらいの地震が来れば市内のほとんどは壊滅してしまうのではないでしょうか。

慢性的な交通渋滞を解消すべく地下鉄の建設計画もあるのですが、地面を掘ると地下水が染み出してきて工事が難しいため、実現するのはもっと先のことになりそうです。

2枚目の写真の中央奥に見える白い道のようなものがエル・ドラード国際空港の滑走路です。

この日は運よく飛行機が飛び立つところを見ることが出来ました。

写真に撮ろうとしたら、たまたま近くにいたお兄さんに記念撮影を頼まれ、シャッターチャンスを逃してしまいました(涙)。


モンセラーテの頂上


私の腕時計は高度計の機能もついているのですが、モンセラーテの丘の頂上付近で高度は3025メートルを示していました。

私はボゴタで息苦しいとか、めまいや吐き気や頭痛を感じたことはないのですが、同行していた日本人のAさんはかなり苦しそうでした。

だいたい標高2300メートルあたりから高山病の症状が出てくると言われますが、個人差があるので一概には言えません。

私は鈍感なのか、3千メートルの高さでも何も感じません。

ボゴタ在住歴の長いAさんに言わせれば、この丘の頂上付近の空気は「硬い感じ」で、丘から降りると空気が「柔らかく」感じるそうです。

私もボゴタでは夕方5時くらいになるとガクンと疲れてしまい、夜はかなり早く寝てしまうのですが、やはり酸素が薄いと知らず知らずのうちに体力を消耗しているのかもしれません。

この地を征服したスペイン人たちも高山病には悩まされたらしく、当時は原因が分からないので南米特有の風土病だと思われていたそうです。

Aさんも「たまには低地に降りないと体が保たない」と言っておられますが、逆に低地に降りると今度は酸素が濃くて「酸素酔い」のようなことになるのでは、と思います。

私もボゴタにしばらくいて、標高の低い他の土地にも行きましたが、やはり鈍感なのか違いが分かりませんでした(汗)。


グアダルーペの丘


これはモンセラーテの丘にも近い「グアダルーペの丘」を望んだところです。

グアダルーペの丘には、16世紀後半にペドロ・デ・ルーゴ・イ・アルバラシンという人が作った有名なキリスト像のある教会があるのですが、こちらの丘はモンセラーテよりも高いところにある上、アクセスの手段が険しい登山道しかないため、私も行ったことがありません。

なので、遠くから白っぽい像のようなものを眺めていただくしかありません。

Aさんの話では「山賊が出る」とのことですが、こちらの丘も3千メートル以上の高さにあるのに、山頂付近まで青々と森が広がっていますね。

日本では絶対にあり得ない光景です。私はいつも不思議な気分になります。


シパキラ


さて、ボゴタを離れた私は、郊外のシパキラという町にやってきました。

ここはボゴタから北に約50キロ、車で1時間ほどのところにあるのどかな田舎町です。

シパキラはコロンビアの歴史上、重要なところでもあります。

18世紀の終わりごろ、コロンビア(当時はヌエバ・グラナダ副王領)ではタバコ税などの重税と物価高騰に苦しみ、宗主国スペインからの独立を求める動きが起こりました。

1781年にはソコロ地方(現在のサンタンデール県)で、重税と圧制に苦しむ民衆の反乱が起こり、クリオーリョ(現地生まれの白人)を中心とするコムン(革命委員会)が結成されます。

反乱軍の要求は重税撤回から独立にまで膨らみ、脅威を感じたボゴタの副王はボゴタ郊外のシパキラまで迫ってきた反乱軍と和平協定を結びます。

ボゴタ副王フローレスは、反乱軍の要求を受け入れることと、反乱軍の指導者を一切罪に問わないことを約束するのですが、後にこの約束は反故にされ、反乱軍を率いたアントニオ・ガランは捕らえられ、ボゴタで四つ裂きの極刑に処されたのでした。

この「コムネーロスの反乱」は失敗に終わるのですが、それから約30年後にコロンビアはスペインからの独立を宣言し、10年にもわたる激しい独立戦争の末に自由を勝ち取ります。

シパキラはコロンビアを語る上で欠かせない土地なのですが、シパキラの名物と言えば何と言っても「岩塩」です。

このあたりは今でこそ標高3千メートル近いアンデスの高原なのですが、太古の昔は海の底でした。今から1億年以上前のことです。

その後、大規模な地殻変動が起こり、陸地に取り残された海が干上がって膨大な量の岩塩を残したのです。

シパキラには岩塩の鉱山があり、今でも岩塩の掘り出しが行なわれています。かつての鉱山跡は観光名所になっており、いつも多くの観光客でにぎわっています。

写真は鉱山の入り口にあるなんだかよく分からない巨大なオブジェです。コロンビアにはよくこういう意味不明なものがあります。

では、さっそくシパキラの岩塩鉱山に入ってみましょう。







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